骨董収集に魅せられて

 路東之さんと古陶文明博物館

             文・李雪梅 写真・魯忠民

   

 北京市宣武区の大観園公園北門にある古陶文明博物館は、陶器を専門に展示する北京初の博物館、そして北京で最も早い時期に設立された私立博物館の一つとして知られている。同館のコレクションは、新石器時代の彩陶、周.秦.漢.唐代の陶器、戦国.秦.漢代の画像磚(画像や文字を刻んだレンガ)と瓦当(絵模様や文字のある軒丸瓦の先端部)、秦・漢代の「封泥」(古代、竹簡や木札を縄で結んで配達するとき、縛り縄の結び目を封ずる泥に印を押したもの)を中心に、約三千点に上る。その重点は中国の古陶文化を紹介することに置かれているが、芸術的、考古学的な価値も高く、特色あるコレクションとなっている。

 館長の路東之さん(38)は作家、詩人、芸術家、学者として幅広く活躍している人物だ。彼はこれまでに何度も自分のコレクション展を開いているほか、『情況』という詩画集を出版。自ら装丁した『路東之のコレクション――戦国.秦.漢の瓦当原拓本』(『路東之蔵 戦国秦漢瓦当原拓本』)『路東之の夢斎――秦の封泥写真集』(『路東之夢斎秦封泥留真』)『路東之の夢斎――甲骨文コレクション』(『路東之夢斎蔵甲骨文』)などの書籍は、その独特の風格と質の高さで評判となり、日本など海外のコレクターや大学、博物館からも多くの注文があった。

        始まりは漢の瓦当

 コレクターといわれる人は少なくないが、路さんの経歴と活動はその中でも一際変わっている。彼は単なるコレクターではなく、その経験を文化的な活動にまで広げてきた。彼は興味の対象が幅広く、理想主義的で、世俗の世界から距離を置こうとするようなところがある。書道にも長じているが書道界とは一線を画し、彩色水墨画も相当の腕前だが多作ではない。詩は幼い頃から書いているのだが、自ら詩人と名乗ったことはなく、詩人たちによる活動にも参加しようとしない。ノンフィクション、詩画集『情況』、短編小説「戯台」などを相次いで発表し、文壇デビューを果たした際も、多くの人が彼の将来に期待を寄せたが、その後はコレクションと考古学に没頭するようになってしまった。

 「夢斎」と名づけた彼の書斎は、それ以来、さまざまな文物で埋め尽くされるようになった。コレクターとして成功するための条件として、彼は「独特の審美眼、判断力、文化的素養、強い意志と執着心、一定の資金力、そして金では買うことのできない一種の縁に恵まれること」を挙げている。

 路さんがコレクションの世界に入ったのも、一つの不思議な縁によるものといえるだろう。1987年、西北大学が作家を集めて開いたカリキュラムに参加した際、キャンパス内では大学図書館の建設が行われていた。工事現場を見た瞬間、彼の中に奇妙な直感が生じ、一緒に授業を受けていた人々に「ここには宝が埋まっている。しかも、その中には僕のものになる宝もあるはずだ」と断言した。そう言ってしまった手前もあり、彼はそれから毎日、食堂に行く途中に建設現場の中をあちこち探し回った。夢中になりすぎて、あやうく食べ損ないそうになることもあったので、周りの人から「頭がおかしくなったんじゃないか」と笑われたりもした。

 ところが、それからしばらくして、西北大学の考古学調査チームがこの建設現場で唐代の建築物の跡や漢代の墓、その他多くの文物を発掘した。路さんも積み上げられた土の中から陶塔、陶ゲ、瓦当を次々と発見。なかでも大きな収穫は、偶然土を蹴ったときに見つけた碑の一部だった。これは唐代の石碑で「有菩薩不住色」という六文字が三行に分かれて書かれていた。これこそがあの時予言した「自分の宝」だと信じ、この六文字がまるで神の言葉のように思えたという。これをきっかけに、彼は骨董収集に夢中になっていくのだった。

 路さんがまず精力を傾けて集めたのは、漢代の瓦当だ。古代建築で瓦が用いられるようになったのは西周の時代からだ。一般的に、瓦当は半円形から円形へ、陰刻から浮き彫りへ、文様のないものからシンプルな文様装飾へ、さらに具象的な絵模様、抽象的な図案、漢字の銘文へと発展してきた。その魅力は素朴さにあり、雅趣に富んだコレクションとして、清の時代にはすでに文人や金石学者などが競って収集していた。

   

 路さんと瓦当の縁も、西北大学で学習していた時期に始まっている。当時彼はまだ小説や詩の創作を続けていこうと考えていたのだが、すでに瓦当の誘惑は抗いがたいほど強くなっていた。瓦当を収集するために郊外の遺跡や辺ぴな田舎に足を伸ばし、立派な瓦当を手に入れることができた時は、詩を作ったり、瓦当の図案を拓墨してその喜びを表現した。

 先輩のコレクターたちが文字の入った瓦当を重んじてきたのと異なり、彼は瓦当の文化的変遷という視角に立ち、文字のない瓦当の収集に力を入れた。

 瓦当は秦・漢時代から清代にわたって製造された。どの時代の瓦当にも先人たちの理想や願望、愛情や憎悪などの感情が投影されているだけでなく、重大な歴史的事件などが記録されている。例えば「漢併天下(漢、天下を併す)」という文字が刻まれた瓦当は、漢の高祖劉邦が諸侯を滅ぼし国土を統一したことを示しているし、漢の将軍が匈奴の侵入を撃退した時には「破胡楽哉(胡を破りて楽しむかな)」という喜びの言葉が漢人の家の屋根を飾った。ほかに「千秋万歳」「万寿無疆」「延年益寿」「長楽未央(長楽いまだ央かず)」「長相忘(長く相忘れず)」といった吉祥の言葉は、瓦当を通して現代に受け継がれてきたものだ。

 それから五年後、路さんは再び西北大学を訪ねた。図書館は立派に完成し、その書架には彼の詩画集『情況』が並んでいた。その本には、五年前にちょうどそこで起きた不思議な出来事と、瓦当について詠んだ詩などが書かれていた。五年前は想像もしなかったことだが、この時彼は、すでに有名な瓦当コレクターになっていたのだ。

       古代社会を語る封泥

 封泥は泥封ともいい、古代の人が文書や書簡、あるいは貨物の包みを封じるために用いた硬くて薄い泥土で、上に印が押してある。封泥が最初に発見されたのは清代の晩期のこと。それから1940年代までの間に、二十回近く、土蔵の中にしまわれていたものが大量に出土し、同時代に発見された甲骨、竹簡、瓦当とともに金石考古学の重要な研究対象となった。しかし、その後甲骨学が大いに注目され、竹簡の研究でも大きな成果が続出したのに対し、封泥は出土したというニュースがたまに紹介されるだけで、これを収集、研究する人も少なくなっていた。

 路さんが封泥を収集しはじめたのは、やはり西北大学で学んでいた時代。漢代の瓦当を探していたとき、ある農家で偶然に封泥を見つけたのがきっかけだった。その家のおじいさんによると、解放前に家を建て直したとき、土の中から「このわけの分からない代物」がたくさん出てきたのだという。彼の父親は、これを一個につき二斗の米で骨董屋と交換していたらしい。路さんはおじいさんに何度も頼み込んで二十個の封泥を分けてもらい、これをもとに『二十封泥記』という文章をしたためた。しかし、その後は封泥の収集はなかなか進まなかった。

 1995年春、ある骨董売りの店を覗いたときのことだ。目の前に二百個余りの封泥が並んでいるのを見た途端、路さんは心臓がドキドキ音を立て始めたのを感じたが、その興奮が表情にでないよう、必死で気持ちを押さえ込んだ。それは後漢の封泥よりも、さらに精緻で質朴な秦の封泥だったのだ。一つひとつ手にとってみると、文字や絹地の跡、縄を通した穴、さらには二千年前の人が残した指紋まで残っているではないか。驚きと興奮の中で、路さんは「この封泥には何か大きな秘密が刻まれている」と直感した。学術的にも大きな価値を持つものであることは、間違いないように思われた。このように貴重な文物が、たくさんの人の手を渡りながら西安や北京などの地を転々とし、しかも誰もその真の価値に気がつかなかったのだ。結局、路さんはそれから半年近くの間に、本来の価値にはそぐわぬ安い値段で秦の封泥を大量に買いあげることができた。

 こうして1995年末には、路さんの収集した封泥は千個近くに増えた。路さんはこの貴重なコレクションを前にしながら、当初の喜びが少しずつ重い責任感に変わっていくのを感じていた。そこで彼は自身の封泥コレクションを整理した目録と一部の実物を携えて、西北大学博物館の周暁陸館長を訪ねた。それが、のちに「秦の文化史における一大発見」と呼ばれる研究の幕開けだった。1996年12月、路さんはコレクションの中でも特に重要な意義を持つ封泥二十個を西北大学博物館に寄贈。秦の封泥の発見という重大な事実がこの時始めて一般に公表され、西北大学の主催で初の「秦の封泥に関する学術シンポジウム」も開かれた。路さんの発見によって、半世紀にわたって停滞していた封泥研究が再び注目を集めるようになったのだ。

 これらの封泥に刻されているのは主に秦代の中央と郡・県の職官印で、それまであまり知られることのなかった秦代の政治・文化的情況がここから明らかになった。考古学や史学の研究者たちからも重視され、『史記』『漢書』の内容を補う貴重な史料として高く評価された。封泥は、いわば秦王朝の最初の「百官表」と地理志であり、古代中国の政治体制に関する最も古い文字記録の一つでもある。歴史的にも重要な意義を持つ封泥のシリーズ展示は、古陶文明博物館が開館した際も、最も大きな注目を集めた。

 1998年の秋、路さんは茨城県古河市の市長と同市篆刻美術館の招きに応じて日本を訪れ、「封泥の収集と研究――その過去と現在」と題する講演を行い、賞賛を浴びた。路さんはまた、清末の有名なコレクター陳介其氏が集めた封泥七百個余りを収蔵している東京国立博物館を見学。この時は、博物館側が路さんのために特別に収蔵庫から漢の封泥を持ち出してきた。このような手厚い待遇を受けた中国人は、それまで社会科学院歴史研究所の李学勤所長しかいなかったという。わずか二十四日間の滞在だったが、路さんにとっては実りの多い訪日となった。古陶文明博物館と古河市篆刻美術館は友好博物館となり、路さんが企画している「路東之コレクション海外巡回展」は、まず日本で開かれることが決まった。

       自らの力で博物館を

  1994年、北京の骨董市場に突然大量の彩陶が出回った。路さんには、これらの彩陶の半分以上がにせものであることは分かっていた。彼は千点以上の彩陶を手に取り、鋭い眼力で本物とにせものを見分け、六十個余りの逸品を手に入れることができた。国宝クラスのものこそなかったが、特別の味わいをもつ彩陶が多く見つかり、そのうちの何品かは、従来の彩陶文化の類型に新しいモデルを提供しうる珍品だった。これだけ膨大な数の彩陶を短時間で集められたことに、彼自身も驚き、夢を見ているような気持ちだったという。

 コレクションが充実してくるにつれ、路さんは「これらをどう選別して体系化していくべきか」ということを考えるようになった。彼は1995年3月に『路東之のコレクション――戦国・秦・漢の瓦当原拓本』の跋で「いつの日か、私は自分の博物館を建てたいと考えている」と書いたが、その夢を実現すべき時が近づいていた。

 そして1997年6月5日、北京で最初期にできた私立博物館の一つである古陶文明博物館が、大観園公園北門にオープンした。建物全体は古代建築を模しており、400平方メートルのホールに六百点近い収蔵品が常設展示されている。「瓦当大観」「彩陶淵薮」「封泥絶響」「古陶序列」という四つの展示テーマのほかに、路さん自身による詩や書画、画像磚や瓦当の拓本、題辞や跋文などを紹介するコーナーもある。

 展示ホールはトイレのカーテンにまで秦・漢代の画像磚や瓦当のデザインが施されている。展示品の解説、博物館のシンボルマーク、入場券、記念品なども国立博物館のそれと比べてもそん色なく、古風で上品なデザインで統一されている。

         執筆と芸術活動

 路さんの著作の中で、最も代表的なのが『路東之のコレクション――戦国・秦・漢の瓦当の原拓本』と『路東之の夢斎――秦の封泥写真集』だ。これらはいずれも彼自身の手で一枚一枚拓本をとり、印を押して糸綴じた上で、ケースに入れた。『路東之の夢斎――秦の封泥写真集』の見本刷りを当時九十四歳だった作家施ユン存氏に届けに行ったときのことだ。施氏はこの本を手に取り、「自分の金で買おう」と言ったが、路さんは「とんでもありません。お気持ちだけいただいておきます」と答えた。施氏は目の前の路さんの顔をしげしげと見つめて「君は古風な人間だな。顔立ちまで古風だ。まるで清代以前の人のようだ」と、笑った。路さんは施氏の愛情をひしひしと感じて、一緒に声を立てて笑ったのだった。

 2000年の旧正月、路さんは久しぶりに個展を開き、詩人と芸術家としての特異な才能を発揮した。『解体された構造及びその他――路東之の美術作品展』と題したこの展覧会は、一つの展示が完成するまでのプロセスを観客に提示しようという実験的なもので、展示品も常に入れ替えられた。内容的にも形式的にも通常の展覧会とは異なり、開幕式も閉幕日もないというユニークな試みだった。展示は「解体された構造シリーズ」「夢斎の原拓本シリーズ」「世紀末に寄せて」「新世紀に寄せて」「自分の面影をも映すランプシリーズ」「鳥・太陽と天地・人間の彩墨シリーズ」などのテーマに分けられ、前衛的な精神と異端とも言える独特な色彩感覚に満ち溢れた世界を現出した。こうした展示品の多くが、彼自身のコレクションや詩文と密接な関わりを持っているのは言うまでもない。特に古陶文明博物館の展示品とともに陳列された作品群は、互いに響きあって輝きを増し、芸術家そしてコレクターでもある路さんの博物館ならではの特徴と風格を醸し出していた。 (2001年5月号より)