中国優秀観光都市
済源市は河南省の西北部、洛陽・竜門石窟の北約30キロの位置にある。市街の南には黄河が流れ、東には華北平原が広がっている。古い歴史を持つこの町は偉人や文人ゆかりの遺跡のほか、各種の伝説や神話も多く、中国文明の揺りかごとも呼ばれている。 「済源は山水好く、老尹これを知ること久し」。唐の詩人白居易は、このように済源の美しさを讃えた(尹は官職名。ここでは自称)。そうした財産を生かそうと、済源市はそれぞれ特徴的な魅力を持った五つの風景名勝区を開発。高速道路を使えば省都・鄭州からおよそ二時間という地の利もあり、多くの旅行客を引き付けている。 「茶仙」盧とうの故郷
盧とうは号を玉川子といった。幼い頃から仕官を志し、自負心が強く、宰相以外の官職には就こうとしなかった。博学多才で知られた彼だったが、人に媚びへつらうばかりの官界に嫌気がさし、官職を捨てて故郷に戻り、茶の道に没頭したのだった。 彼の茶は葉を煮て出すところに特色があり、豪快に飲むことを常とした。これは茶葉に湯を注ぎ、上品に味わう当時の一般的な作法とは対照をなすものだった。彼の探求は「七碗茶歌」や著作『茶譜』に結実し、当時の茶道と一線を画したその風格は、茶の文化に新しい風を吹き込んだと言われている。 盧とうは茶を酒の代わりにし、詩を吟じるときは茶を欠かさず、茶で友をもてなした。韓愈、孟郊、賈島などの詩人と深く交わり、共に茶を飲みながら詩を詠んだと言われる。 九里溝には今も玉川泉、花洞田、品メイ延寿台など、盧とうゆかりの遺跡が残っている。茶を飲んだり茶道の実演を見学する施設もあり、「茶仙」の愛した趣きを味わうことができる。 九里溝にはこのほかにも、小さいながらも精緻な造りが見事な蟾堂の古廟、伝説的な道士劉盧が修行した場など、多くの名所旧跡がある。特に金炉頂と呼ばれる峰には道教に関する遺跡が多く、湖北省にある道教の名山、武当山にちなんで「北武当山」とも呼ばれる。金炉頂の下にある東王母洞は天壇山の王母洞と対になっており、石製の壁、瓦、窓、門は簡素な美に溢れ、周囲の自然に溶け込んでいる。 黄河の三峡 古くから「黄河の水は天より来る」と言われてきた。怒涛のごときその流れは土砂を呑み込み、猛獣のような咆哮を上げながら険しい峡谷を駆け抜けていく。
最近、中国では特に人気の観光コースを指して「全国十四旅遊熱線」というが、「黄河の旅」もそのうちの一つに数えられている。済源の風景区は黄河の中流域から下流域にかかり、西の八里胡同から東の坡頭西灘までの五十キロあまりは、黄河流域で一番下流にある峡谷地帯となっている。 一九八〇年代、黄河の激流を治めるため、この峡谷の出口に高さ百五十四メートル、全長千六百十七メートルという巨大な鉄筋コンクリートの堰が造られた。「小浪底水利中枢プロジェクト」と呼ばれた大工事で、総投資額は約四百億元(約六千億円)に達した。 巨大な三つの出水口からは河の水が轟音を立てて流れ出し、水飛沫が霧となって辺りを満たす一方で、堰の上流は穏やかな水面が峡谷の形に添って延々と広がっている。こうした変化に富んだ景色を知る人が増えるにつれ、「南に長江の三峡あれば、北に黄河の三峡あり。済源には中国北方の山水の粋が集まっている」との評判が広がっている。 八里胡同は黄河流域でもっとも壮観な景色が見られる場所として知られ、「万里黄河第一峡」とも称される。ユニークな形をした峰が、激しい河の流れを挟んで対峙している。 この地域では千年以上前から、禹とその父鯀の治水の伝説「鯀山禹斧」が語り継がれてきた。水流をせき止めて河を治めようと考えた鯀は、天帝のところから神の土を盗み取り、王屋山と青要山の間に積み上げて鯀山を造ったが、かえって河は氾濫を繰り返すようになってしまった。そこで禹が斧で山を切り崩して長い峡谷を造ったところ、河の流れを治めることができたという。峡谷の下流に広がる黄河西灘は鯀山を切り崩した時の神の土だと言われており、水かさが増せば地面もせりあがるので、決して水没しないのだそうだ。
黄河の三峡は小浪底大堰と王屋山によって生まれた絶景で、広々とした湖面と切り立つ断崖の対比が実に面白い。黄河の三峡とは孤山峡、竜鳳峡、大峪峡を指し、それぞれ特徴的な風景が広がっている。孤山峡では切り立つ断崖、竜鳳峡では入り組んだ地形と河の流れ、大峪峡では広々とした眺めを堪能できる。ボートで競漕するもよし、水鳥と戯れるもよし、岸辺の山に登って眺望を楽しむもよし、いろいろな楽しみ方のできる場所だ。 また黄河三峡には隋と唐代に造られた桟道、宋の太祖趙匡胤(九二七〜九七六年)ゆかりの歴史文化遺跡も多数残っている。 神仙の山 王屋山は中国の古代九大名山の一つに数えられているほか、中華民族統一の聖地、中国道教の名山、そして有名な寓話「愚公山を移す」が生まれた場所としても知られている。王屋山景観区は二百六十五平方キロの広さがあり、国の重点風景名勝区にも指定されている。 王屋山という名の由来は、王者の住む家のようなその勇壮な形にある。主峰の天壇山は海抜一七一五メートル。彩雲を貫き、周りの山を睥睨するような姿は、確かに「王者の風格」を感じさせる。古い文献には、黄帝が王屋山に登って祭壇を設け、天下統一を祈った、とある。その後黄帝は天下統一を成し遂げ、そこから中国五千年の文明史が始まったのだった。黄帝はまた、ここで広成子という道士に教えを請い、悟りを開いて仙人となったとも言われている。王屋山では老子、王子晋、于吉、魏華存、葛洪、司馬承禎など道教を代表する道士や理論家らのほか、唐の玄宗の妹玉真公主も修行したことがあり、道教の十大洞天(神や仙人が住んだとされる場所)の中でも最高位に位置づけられている。
唐の時代、この山には紫微宮、陽台宮、総仙宮、清虚宮、十方院、霊都観などの大規模な道教建築が相次いで建てられた。その数の多さは「三里ごとに宮ひとつ、五里ごとに殿ひとつ」といわれるほど。今も焼香客が絶えることはなく、道教信仰の中心地となっている。 仙境を思わせる王屋山の雲、樹木、渓流、峰の美しさは、多くの文人や書画家たちを魅了してきた。李白、杜甫、白居易、王維、孟浩然、李商隠、韓愈など、錚々たる面々がこの山を訪れ、不朽の名作と呼ばれる作品を多く残している。今に残る李白の唯一の墨跡「山高水長 物象千万。非有老筆 清壮何窮」は、王屋山の陽台宮で書かれたものだ。 王屋山はまた、漢方の薬材の宝庫でもある。唐代の名医で「薬王」と呼ばれた孫思裙(五八一〜六八二年)は、晩年この山に庵を結び、亡くなるまで薬草の採集や研究を続けた。王屋山では今でもマンネンタケ、オニヤガラ、ツルドクダミなど二百種以上の薬草が採れ、その品質の良さは国内外で高い評価を得ている。 こうした文化歴史遺産と自然の豊かさにひかれ、王屋山に足を伸ばす観光客が増えている。石の階段を登って天壇山の頂上を目指せば、途中に痩竜嶺、十八盤、仙人橋、紫金崖など多くの名所があるほか、沿道に大小の廟や宮殿が次々と現れるので飽きることがない。ケーブルカーからの眺めもまた格別だ。条件にめぐまれれば「天壇倒影」「王母仙灯」など、自然が織りなす五つの奇観も目にすることができるはず。かつて神や仙人が住んだという山の神秘を感じることができるだろう。また、華北地区では珍しい原始林が残っているほか、サンショウウオ、キンセンヒョウなどの貴重な動物も多い。(2001年5月号より) |