徐一平氏

 

 

 

     
「後継ぎ」養成の拠点 ビル新設に期待
開かれる北京日本学研究センター

徐一平・北京日本学研究センター主任     
並木頼寿・北京日本学研究センター主任教授
   

 

 




   
   中国における日本研究や日本語教育の拠点「北京日本学研究センター」が、中日共同の文化交流事業として北京に開設されて16年。来年の中日国交正常化30周年には、日本の政府開発援助(ODA)により初めて、センターのビルが北京に建設される予定で、その発展には一層の期待がかかる。センターの歴史的な意義と今後の目標などについて、中日双方の代表の徐一平、並木頼寿両氏に話し合ってもらった。  

並木頼寿氏

 

 

 

 

 

      「大平学校」含め千人卒業

 並木頼寿 センター(別項参照)の卒業生たちは今、大学教授や研究者、マスコミ関係など各方面で活躍中ですね。彼らが日本を「丸ごと」理解する両国の懸け橋として育っているのは、本当にうれしいことです。センターの歴史を振り返ると、前身の「大平学校」(別項参照)の存在を抜きにしては語れませんね。

 徐一平 実は私も大平学校(正式には「日本語研修センター」、中国語では「全国日語教師培訓班」)の二期生なんですよ。これは1979年、大平正芳首相(当時)が北京を訪問した際に、レベルの高い日本語教師を養成しようと中日双方で合意し、開設したものです。大平首相への敬意を表して、後に大平学校と呼ばれるようになりました。

 プロジェクトは80年から5年間でしたが、派遣された教授陣のラインナップのすごさといったら。金田一春彦先生、佐治圭三先生、宮地裕先生など、留学しても普通は会えないような日本研究や国語教育の大家が直接、指導に当たられたのです。その大平学校の成功を引き継いで、つくられたのがセンターです。やはり大御所の先生方が派遣されています。近年の主任教授だけ見ても、野村浩一先生、溝口雄三先生、木山英雄先生、竹内実先生……。こうした教授陣の直接指導が、センターの魅力の一つではないでしょうか? 大平学校時代から数えると、派遣教授はのべ350人にもなります。

 並木 その大家の中に、私などが並んでもいいのだろうかと思いましたが(笑)。

 プロジェクトは当初、日本語教師の養成が主な目的でした。その後、センターに大学院コースが設置されたことにより、日本語のブラッシュアップだけでなく専門研究にも重点が置かれるようになりました。こうして日本語や日本事情に秀でた「知日派」が育つ。彼らの成果は、最新の日本研究や日本の大家の教えを中国の研究者に即、伝えられること。そして外からの目で独自の日本研究を開拓する可能性もある。そうした両国の懸け橋となる人材を多数輩出していますね。

  大学の学部と修士で六年ほどの専門課程を、センターでは2、3年で修了しなければなりません。学生たちも大変ですが、それだけに優秀な人材がすくすくと育っていますよ。センター開設以来、修士修了者が三百数十人、日本語養成を受けた大学教師が三百数十人。大平学校時代を含めると千人以上の学生が、ここから巣立ちました。現在、中国の各機関にいる四十歳前後の日本研究者は、大平学校やここの卒業生が少なくありません。革命時代に、孫文が率いた幹部養成校・黄埔軍校(黄埔軍官学校)がありましたが、大平学校とセンターはある意味で中国の日本語教育・日本研究の「黄埔軍校」ではないでしょうか(笑)。中日間の人材養成で、最も成功した例と自負しています。

       ケンカするのが面白い

  並木先生は近く一年の任期を終えられ帰国されますが、センターの印象などを……。

 並木 行政管理が主な仕事でしたので、学生との接触は少なかったですね。週に一度「日中文学文化比較」の授業を、全コース約六十人の学生に対して行いました。ある時、言語コースの学生に「テンスとアスペクトとは何ですか?」と言語学の専門用語を問われ、自分の専門(中国近代史、近代日中関係史)以外だったので往生したことも(笑)。中国の学生は素直に自分の意見を言いますね。最近の日本の学生に比べて、実に活気があります。

  最近もこんなことがありました。古典文学で原典を読んだクラスの話です。大学で古典文法をきっちりと学んできた学生が、その原典に対して「文法として間違っている」と指摘したのです。正しい文法をわざと崩す作者もいるだろうし、修士課程ではむしろ文学の背景や精神を理解するのが目的です。しかしその学生は頑として言うことを聞かない。担当教授も困り果てた、原典批判の騒動がありました(笑)。

 中国の学生は、自分が正しいと思えば教授に対しても面と向かって反論します。だから日本の先生方も、その手応えを魅力的に感じているようです。比較文学の平川祐弘先生は、センターに三度派遣されましたが、また来たいと国際交流基金に希望されています。「中国に来て、学生たちとケンカするのが面白い」と。日本では、学生にケンカ(議論)をしかけても、なかなか相手になってくれないとこぼしていましたよ(笑)。そんな人間同士の真のつきあいが、ここにはあるのです。

 並木 センターは両国政府の共同事業ですが、民間からもかなり注目されているのが印象的でした。例えば、図書館には民間から寄贈されたいくつかの文庫があります。高碕文庫(LT貿易の日本側連絡責任者・高碕達之助氏寄贈、故人)、孫平化文庫(中日友好協会会長寄贈、故人)、徳川文庫(学習院大学教授・日本国語学会代表理事・徳川宗賢氏寄贈、故人)、小孫文庫(講談社編集者・小孫靖氏寄贈)などです。

  とりわけ孫平化文庫については、日本でも茨城県日中友好協会などにより「孫平化文庫に本を送る会」がつくられました。北京を訪れる際には会員の皆さん一人ひとりが、重い辞書や新刊本をスーツケースに詰めて、図書館へと運んでくださるのです。図書館の蔵書は現在約七万冊ですが、こうした民間からの寄贈だけでも一万冊近くになります。

 孫平化先生は生前、センターの客員教授でした。92年には日本の勲一等瑞宝章を受章され、日本で祝賀会が開かれましたが、そのご祝儀を元手に、自ら希望し開設されたのが孫平化文庫です。ご遺志は連綿と民間に受け継がれています。

 また、先生は97年に「孫平化日本学学術奨励基金」を設立されました。当時、病床にあった先生が「若い人たちの日本研究を奨励するために役立てたい」と日本での講演料や友人からの見舞金、原稿料など多額の資金をセンターに寄付されたのです。設立契約書を取り交わす時、病院のベッドの上でサインをする先生の手は弱々しく震えていました。が、助けようとした娘さんの手を振り払い、先生はご自分の意志で契約を取り交わされたのです。

 基金の現会長は劉徳有元文化部副部長(次官)。隔年で授与式を行い、二回目の昨年は中国側から羅豪才政治協商会議副主席、日本側から村山富市元首相、平山郁夫日中友好協会会長が出席されました。奨励の対象は、中国在住の若手の研究者です。こうして政府と民間双方に支えられながら、センターが運営されています。

   

        図書館2階分に蔵書20万冊

 並木 来年の国交正常化30周年を記念する時期にあわせて、日本のODAによりセンターのビルを新設する準備も進められています。これは九九年の故小渕恵三首相の訪中、翌年の朱鎔基首相の訪日の際に、両国で取り交わした協力プロジェクトの一つ。日本経済の低迷などから対中ODAの見直しを求める声も高まっていますが、センターのビル新設については、関係機関である外務省や国際交流基金、JICA(国際協力事業団)、日本大使館をはじめ、中国教育部、対外貿易経済合作部、北京外国語大学などの厚い支持を受けています。

 現在は北京外国語大学の部屋を「間借り」していて、かなり手狭なのですが、新しいセンターは同大学の敷地内に、数階建てのビルとして建設する予定です。図書館や管理室、研究室、教室、講堂などを基本設計に組み込んでおり、中でも図書館は一、二階部分へとスペースを大幅に拡張したい。蔵書も現在の三倍にあたる20万冊に増やす計画で、文字通り「中国最大級の日本研究図書・情報センター」として、生まれ変わることが期待されています。

  そうですね。図書館はこのほど、日本の国立情報学研究所(NII)の協力でコンピューターネットワークを確立しました。これにより、センターのホームページから日本全国の図書館の蔵書検索や、ここにある蔵書の検索ができるようになりました。図書館を「宝の持ち腐れ」にするのではなく、研究者や学生が自由に閲覧し、貸し出しができるような、対外的な情報提供の場にしたいですね。

 並木 そういう意味でも、センターのビル新設が今後の日中交流に貢献できればと思います。来年は、大型シンポジウムや第三回孫平化日本学学術奨励基金表彰式の開催、そしてビル新設を「目玉」に据えて、記念の年を盛大に祝いたいものです。

        研究のグローバル化を

  センターは十五周年を迎えた昨年、「第四次五カ年計画」(2000〜05年)を打ち出しました。ここで目指すのは「開かれたセンター」。そして「教育、研究、図書情報」の三本柱を発展させること。これまでの「教育」重視の方針を、さらに拡大発展させようというものです。「研究」とは、中日双方の教授陣による共同研究、また「図書情報」は先にも述べた蔵書の拡大と情報のサービス化です。

 並木 確かに従来は「教育」に重点が置かれました。センターが開設された80年代の中国は、改革・開放がスタートしたばかり。その中で中国における日本研究の先達を一から育てようとしたため、ある意味で「教育の一方通行」だったのは免れません。日本から一流の教授陣がやってきて、日本での研究成果や教育法を、中国側にそっくりインプットしようとしました。それはそれで必要だったのです。

 しかし90年代に入り、中国にも日本研究者が育つ。センター専任の中国人教授が生まれる。そうなると従来の「一方通行」ではいられなくなります。そこで今、まさに中国独自の日本語教育や日本研究というテーマが模索されています。中国の実情に即した、独自の日本研究……。それが日本の日本研究にも良い影響を与えて欲しいし、その上で真の日中共同研究を発展させることが今後の課題です。また、国際化時代にあっては二国間にとどまらない研究のグローバル化も必要ですね。

  そう、まさに昨年の記念シンポジウムのサブタイトルは「外からの視点」。中国だけでなく韓国やアメリカの日本研究者を呼んで一緒にディスカッションをしました。二国間のみならず、世界の視点から日本をとらえることにより、本当の日本研究が可能になると。今後も韓国、香港の研究者らアジア文化圏、アメリカ、ひいては世界の日本研究者との連携で、共通課題を設けるなどセンターの日本研究を深めていきたいものです。

 また「開かれたセンター」としては、これまでも「公開講座」「特別講演会」「学術討論会」などを定期的に行ってきました。昨年はノーベル文学賞作家の大江健三郎さんに記念講演をしていただき、好評を博しました。日本学にとどまらず、映画や音楽、経済、教育……いろいろな分野で活躍されている人たちに講演や討論をお願いすることも、学生の実力を高め、センターを「開放」する上で必要でしょう。今学期の始めに神戸大学法学部の院生・学部生と、センターの学生との座談会を行いました。同時代の若者が意見交換する、こうした貴重な機会も増やしていけたらと思っています。

 並木 すでに韓国のソウル大学と東京大学との学生交流や教授の相互派遣などが始まっていますが、北京日本学研究センターは二国間の学術交流の草分けで、一番成功している例です。この経験と教訓が他の国との交流にも役立つだろうし、さらに広く国際的な協力ができるかもしれませんね。

  21世紀の両国関係には、まず後継ぎが必要です。センターが養成するのは、日本を一番よく理解する人材、いわゆる「知日派」です。そのタマゴたちが「開かれたセンター」で出会い、話し合い、研究する。それを通して本当の日本や中国、両国関係を理解する未来の後継ぎが育てば本望です。これからも政府や民間サイドから、どんどんアドバイスを寄せていただきたい。そしてそれを実現するために努力していこうと考えています。 (構成・小林さゆり)

 北京日本学研究センター 中日両国政府による文化交流の共同事業として、中国教育部と日本の国際交流基金が1985年9月、北京に開設した中国の日本研究・日本語教育センター。大学院の機能を備えており、現在、毎年修士課程18人(半年の訪日研修を含む二年半)、博士課程1〜2人(1年の訪日研修を含む3年)、在職修士課程8〜10人(現職の日本語教師を対象、一カ月の訪日研修を含む1年)を募集している。専攻は日本語学(言語)、日本文学、日本社会、日本文化の四コース。センター専任の中国側教授や、日本から派遣された各大学・研究所などの教授が指導にあたる。卒業生は大学教授や研究者、文筆家、マスコミ関係(『人民日報』、北京放送局他)など各方面で活躍している。(所在地・北京市西三環路北路2号 北京外国語大学内、ホームページ http://202.204.138.11/index.htm)

 大平学校 北京日本学研究センターの前身にあたり、正式名称は「日本語研修センター」。1979年に訪中した大平正芳首相が、両国の相互理解を促進するため中国の日本語教育への協力を約束、80〜85年の5年間に、中国の大学日本語教師約600百人が、日本語教育や日本事情に関する集中研修を受けた。 (2001年6月号より)

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 並木頼寿(なみき・よりひさ)1948年新潟県生まれ。東京大学文学部東洋史学科(中国近代史)卒業。東海大学助教授を経て、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。2000年3月末から1年間、北京日本学研究センター主任教授として赴任。

 徐一平(シュー・イーピン)1956年北京市生まれ。79年北京外国語学院(現大学)卒業。同学院教師になり、大平学校の二期生に。83〜89年神戸大学に留学、修士・博士課程修了後、北京外国語大学教授として帰国。94年センター専任教授、副主任、2000年10月センター主任。