創造の源はいつも文字 中国モダンアートの旗手・徐氷
徐氷は1988年、作品『析世鑒』(一般的には「天書」と呼ばれる)を発表。人々に大きなショックを与え、停滞していた中国モダンアート界を復活させた。そしてその代表的人物になった。これを「徐氷現象」と呼んでも過言ではないと思う。彼の芸術家としての魅力はどこにあるのか。徐氷は今、何を思考しているのか……。 インタビューは、文字をめぐる話題を中心に展開した。文字は、彼の創作の核心であり、源である。『天書』から『新聖書』『新英文書法』と世界に新鮮な感動を与えた作品は、すべて文字を主題にしている。 少年と文字 四十年前のある日、北京大学図書館の書庫。一人の痩せた少年が棚に並ぶ本を眺め、ぼんやりしていた。 徐氷の母は、北京大学図書館学部の教師で、仕事がとても忙しく、息子を一日中書庫で過ごさせることがよくあった。少年は、好奇心いっぱい、手に取れる本は全てのぞいてみる。一冊一冊の本は、彼にとって、神秘的な玩具のようだ。中の文字の形は面白いが、どうしてもその意味は分からない。――この少年こそが、徐氷である。 少年時代の彼の様子を聞いて、私は思わず八八年十月の展覧会を思い出した。残念ながら当時私は見に行けなかったが、その後の批評を見て、訪れた人達の驚きと複雑な感情を想像することができた。いかにも漢字のように見える、奇麗に刻まれた彼の「文字」は、どうしてもその意味が読み取れない。美術批評家イン吉男は「『文字』を読みとりたい意欲は、強い抵抗にあい、無情にも愚弄された」と批評した。見学者たちの受けたこうした感覚は、徐氷の少年時の記憶とまさに同じものだ。芸術家の表現世界と経歴がどんな関わりを持つのか、それは学者の分析に任せるが、私は徐氷と文字は、独特かつ神秘的な関係を持っていると思う。 徐氷は、自分は文字にとても敏感だと何度も言っていた。幼ない時から、父親の指導のもと、書道のけいこを十数年続けてきたという。 徐氷だけでなく、彼と同世代の人間にとって、文字の影響は非常に大きかった。彼らの小学生時代は、ちょうど国家が簡体字を普及させている最中だった。当時簡体字は、数段階に分けて発表された。もの覚えの悪かった彼は、一度公布された簡体字をやっと覚えるとすぐ、また次に公布された簡体字を覚えなければならなかった。小学校五年生の時、文化大革命が始まった。勉強はできなくなり、目につくのは「大字報」(壁新聞)と大きなスローガンばかりだ。文字による暴力は、彼らを強く刺激し、成長と共に永遠に記憶に残った。「徐氷、学校の政治工作班に来てください」と、中学時代は学校放送で何度も呼び出しを受けた。字が上手だから、学校の「大字報」やスローガンはいつも彼が書いたのだ。その時、彼はそれらの字に含まれる政治的な意味は、よく理解できなかったが、字を書くことについては非常に光栄だと思い夢中になった。『人民日報』を手にして、明朝体、ゴシックなどの字体を繰り返し練習した。何年か後、画家になった徐氷が選んだ表現方法が文字だったのは、自然なことだった。 自分の本を作りたい 読者の中に83年の『人民中国』をお持ちになっている方がいたら、毎月の表紙を改めてご覧いただきたい。表紙のカラー版画は徐氷の作品だ。日常の暮らしの風景、小舟、農家などがなんとも親しみを感じさせる。それを5年後の彼の作品『天書』と比べてみたら、非常に面白いと思う。5年の歳月を経て、徐氷は伝統的な版画家から前衛芸術家へと、劇的に変身した。この変身には彼自身の直観とともに、時代の移り変わりも重大な影響を及ぼしている。 文化大革命が終わって、長い間冷遇されていた文化は再び復活した。文化に飢えていた人々は、ようやく解禁された様々な本を懸命に読んだ。多くの講座やシンポジウムが絶えず開かれるようになった。新しく伝えられた欧米の思想や観念は、是非が激しく論争されるようになった。
中央美術学院の学生だった徐氷も、当時の「文化ブーム」に巻き込まれた。本を読んだり、講座を聴いたり、座談会に参加したりした。だが文化に関する論争は、だんだんと彼を困惑させた。文化は解釈できるものなのか。文化に関する論争は意味があるのだろうか。徐氷の言葉を借りると、そうした現象は、まるで「美味の数々を消化しきれず胃を悪くした飢えた人間のようだった」という。自分で本を書き、これらの文化現象を解釈したいという考えが徐氷の頭に浮かんできた。 87年から、徐氷は授業に出る以外、自分の部屋に閉じこもり誰にも読めない「文字」を刻みつづけた。それまでよく参加していた文化に関する討論会にも彼の姿は見えなくなった。当時を回想してみると、その時が一番充実感があったという。毎日、一定量の「文字」を刻み、空論に明け暮れる状態から解放された。彼は『康煕字典』を参考にしながら、一つ一つの漢字の持ち味を吟味しつつ、漢字のようで漢字ではない符号を刻み続けた。これらの符号は明朝体をもとに創作された。明朝体は、かつて職人が創作した字体で、個性的な特徴はない。徐氷が明朝体を選んだのは、あえて何の特徴もない作品を創りたかったからだ。これは「この世に明確に説明できるものなどない」という彼の主張をそのまま体現したものになっている。他人から見れば、徐氷の考えは荒唐無稽で、彼の創作方法はまったく理解できないものだ。これほど熱意をこめて立派な「本」をつくり、それがまったく意味をなさない「漢字」ばかり、などという冗談がありえるのだろうか。徐氷は病気だという人さえいた。たぶん天才芸術家は誰でも、徐氷と同じような扱いを受けるのだ。ゴッホが『ひまわり』を創作したときも、べートーベンが交響曲『合唱』を作曲したときも、他人の目には異常に映ったことだろう。だが、このようなある種の狂気こそ、世に残る傑作を創作する過程での芸術家の在り方ではないだろうか。 1988年10月、一年余の苦労を重ね、版画『天書』は、遂に中国美術館で公開された。それから12年、『天書』は世界各地で展示され、今もまだ徐氷の元に戻っていない。世界各国で数多くの博士や修士が『天書』を研究テーマに論文を書いているという。 『新英文書法』とアメリカでの受賞 一見ひ弱な文学青年のように見える徐氷だが、その胸の奥には反骨精神が息づいている。人々の固定観念を打破することが、彼の創作テーマの一つとなっている。これは『天書』だけではなく、アメリカに移住した後の作品からも見て取れる。
二年の創作期間を経て、96年、徐氷は新作品を完成させた。これはアルファベットを使って漢字を創作したものだ。それを見た欧米人の微妙な感覚は、言葉では形容できないだろう。彼らにとって、東方の書道は非常に神秘的なものだ。それが彼らの国の文字と完璧に組み合わされている。この作品『新英文書法』は徐氷が名付けた。三十余りの国で展示されたときには、書道の練習のように、見学者は会場でこの「新英文書法」を習い、書いてみることができた。うまく書いた人の字は、その場に展示された。自分の書いた字を見て、彼らはかつての現代芸術との距離感や、神秘的な東方の書道芸術に対する疎外感を完全に乗り超えることができた。 『新英文書法』はきわめて実用性と社会性に富む作品だ。『新英文書法練習帖』が出版され、「新英文書法」のテレビ講座も開設された。徐氷は「新英文書法」で展覧会をするのはもちろん、インターネットにも使用し、劇場の建物に揮毫したこともあった。「新英文書法」は日本でも公開され、彼は地元の子供に教えたり、「博多座」という劇場に揮毫したりした。また日本のある博物館と共同で「新英文書法」のソフトも作った。 博物館を見学する人たちがローマ字で自分の名前をコンピューターに入力すると、すぐ「新英文書法」の書式に変わる。それをプリントアウトして家に持ち帰る仕組みだ。「新英文書法」の影響力をさらに広げるため、徐氷はこの博物館と共同で「新英文書法」のストックの開発に力を入れている。今ではこの書法で徐氷と文通する人が少なくない。今後、徐氷は「新英文書法」コンクールを開催するつもりだという。これほどまでに大衆と触れ合ったモダンアートがこれまであっただろうか。 徐氷の現実に挑戦する姿勢は、まさに創造性の体現である。彼は物真似には飽き足らず、自分独自の芸術で、人々の世界に対する伝統的な認識を破り、新たな視点でこの世界を眺めてもらいたいのだ。前衛的芸術と呼ばれる徐氷の創作は、ますます多くの人に認められつつある。創作の原動力となっているのは、彼の芸術に対する限りない追求である。 1999年6月14日、この日は徐氷にとっても、中国の芸術界にとっても記念すべき日だった。この日、アメリカ学術界の最高賞――マッカーサー賞受賞の知らせが届いた。アメリカ人は、この賞を「アメリカのノーベル賞」あるいは「天才賞」とも呼ぶ。この賞は毎年アメリカで傑出した業績をあげた各分野の優秀な人材に贈られる賞で、賞金は31・5万ドル。受賞者は、世界の権威ある芸術家や科学家だ。徐氷が受賞した理由は、中国の伝統的な方法を使って、芸術の発展に大きく貢献したことだ。彼の受賞は、中国のモダンアートの力を世界に示したことになる。
私の手元には、徐氷の作品の写真がいくつかあるが、その中に彼がアメリカのニューヨーク近代美術館に「新英文書法」で書いた四つの「漢字」「ART FOR THE PEOPLE」がある。これは『毛主席語録』の一文だが、作品を見ると、彼が大字報を書いていたというエピソードを思い起こさせた。当時、数多くの大字報を書いた人のなかで、徐氷だけが、それを芸術へと高度に飛翔させた。徐氷は確かに天才なのだ。「天才賞」を贈ったアメリカ人は、しっかりとその力を見抜いたということだろう。(2001年2月号より) |