■生活走筆

愚公は山を移したけれど……

                                         黄秀芳
 

 小学生の頃だったでしょうか、教科書に「愚公移山」(愚公 山を移す)という寓言が載っていました。古代の寓話集『列子・湯問』の中の話です。昔、北山愚公(愚か者)という者が、家の前に立ちはだかった二つの山を削ろう、と決めました。河曲智叟(利口者)という者が「なんと愚かなことか」と嘲笑しましたが、愚公は答えました。「私が死んだら息子、息子が死んだら孫と、代々山を削るのだ。そうすればいつかはきっと、高い山も平らになるだろう」。一度決めたら困難を恐れずやり遂げることのたとえ、と辞書の注釈にはありました。

 小学校の先生は、さらに詳しく説明してくれました。「人間の力は必ず自然に打ち勝つことができる」と。人類の歴史を遡ってみれば、確かにその通りです。人類は、獣肉を食べ樹皮をまとった原始時代から、地球の主人公となった現代へと著しい変化を遂げました。それは人間が自然を克服した明らかな証拠ではないでしょうか。ましてやこの地球においては、人類未踏の地は日増しに少なくなっているのです。

 新中国成立後の中国の人々は、国の富強を図るため、自然を克服しようとする熱意と勇気にあふれていました。全国の人々が刻苦奮闘し、空前の壮挙をなしとげたのです。長江大橋が建設され、天下の難所が大道に変わりました。大慶油田が完成し、中国の油田史がそこからスタートしました。「天地と戦う」というスローガンがあったように、当時の人たちは積極的に自然との戦いに挑みました。内気で弱々しかった私でさえ、心に大志を抱いたものです。

 ところが自然に打ち勝つなど、土台無理な話であることがわかりました。改革開放が始まった一九七八年以降、徐々に明らかになったのです。例えば大躍進の時に、鍋や釜など鉄製品を集めて製鉄しようとしたものの、クズ鉄ばかりになってしまったこと、湖を埋めて田畑にしようとしたものの、生態環境を壊してしまったことなどです。

 今から思えば、荒唐無稽な行いばかりでした。人が自然を克服しようとした行為は、豊かな暮らしを望んだからです。人を基本とした考え方を非難するわけにはいきませんが、その一方で、大気汚染などの公害には不安を覚えます。ハイテクノロジ―が進歩すればするほど、人は自然を破壊するものなのでしょうか?

 これに関して、雪の話があります。雪の美しさは誰もが認めるところですが、雪が降ると交通事故や災難が絶えません。そのため近年の傾向ですが、大雪の翌日は車道の雪がほとんど消えてなくなるのです。自動車の熱い排気のせいかと思っていたらそうではなく、塩がまかれるからだと後になって教えられました。しかもそれだけではありません。冬には、やはり雪が必要です。空気が乾燥しすぎると、インフルエンザにかかりやすいからです。そこで人工的に降雪を促す「催雪弾」が発明されました。雪が降りそうな時や小雪が舞った時に空に放てば、望みどおり雪が降るというわけです。でもその雪も、ろくに楽しまないうちに塩がまかれて溶かされてしまいます。この悪循環には、なんだか腹立たしくなりました。塩分を含む雪解け水が地下に染み込んだり、街路樹の養分になれば、環境は悪化する一方です。結局、被害を受けるのは人間自身なのです。

 妊娠中の友人と話す機会がありました。生まれてくる赤ちゃんの性別から、出産は自然分娩と帝王切開のどちらがいいか、さらには試験管ベビーや代理妻、クローン人間など未来の子孫繁栄の問題まで、話は尽きることがありませんでした。数日前のマスコミ報道に「某氏がクローン人間を実験中」とあったのがきっかけでした。

 「人間のクローンができれば、結婚しなくてもいいし、好きなだけ子どもをつくることができて、いいわねぇ」と何気なく口にしたのですが、その途端に、ついに人類滅亡の日が来たかのような錯覚を抱きました。それは人間の生育の変化だけでなく、人間関係や人類の進化まで徐々に変えてしまう危険性をはらんでいます。優勝劣敗のルールによれば、IQが低く見劣りする人はクローンがつくられる可能性がないに等しいそうです。そうであるならば、人種が次第に減り、人類はいつか絶滅してしまうでしょう。偉大で聡明な人間は、自然を征服し、地球の{あるじ}主となった後、ついに自らが目障りになったようです。天に向かって唾を吐くようなもの、自業自得です。「人よ、{こうべ}頭を垂れよ」。私たちの行為を謙虚に見つめ直したいのです。

 「愚公移山」の山は天帝の命令で、二人の巨人が運んでいきました。天帝が愚公の精神に感動したからだそうです。けれど私は今、こう理解しています。それは――山が邪魔だったら、引っ越せばいい。わざわざ山を削ることはない。貴州省トン族の民歌にあるように「山河が主人で、人は客」。もし人類の繁栄を願うなら、まず先に自然を大切にしようではないか――ということなのです。(2001年3月号より)