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「改革・開放」とともに変貌 大北窯—公主墳

 

1950年代末、長安街の東西の両端はさらに延び続けた。西は復興門から西三環路(第三環状線西部)の公主墳まで、東は建国門から東三環路の大北窯まで開拓された。

1998年に長安街及びその延長線の整備、改修が始められ、公主墳―大北窯区間は長安街の核心部分となった。全長およそ14キロのこの区間は、道の両側に多くの北京市及び国の重要な政治、文化、商業建築が集中している。特に建国門から大北窯沿いには、友誼商店、国際倶楽部、賽特デパート、秀水街市場(シルクマーケット)及び国貿中心(国際貿易センター)、中央テレビ新社屋など、CBD(中央ビジネス地区)を代表する建築物が並んでいる。この区間は、現在北京でもっとも国際的なビジネスエリアであり、夜もにぎやかな地域の1つとなっている。

国際的にも名高い秀水街

地下鉄1号線を永安里駅で下車したら、そこはもう秀水街である。

国貿橋周辺に林立する新しい高層ビル群
秀水街市場は80年代の初めごろ、最初は暇をもてあましていた個人経営者が、狭い路地に広げた露店で物を売り始めたことに始まる。建国以来、ここは大使館エリアとして知られる場所であった。周囲は各国の大使館と外交官用住宅以外、ほとんど住民がいないため、当時ここに目をつける人はほとんどいなかった。しかしこの特別な立地が、今日の国際的な秀水街市場の、「改革・開放」における大いなる発展の決め手になった。

唐京玲さん(50歳)は、秀水街市場の変遷を目の当たりにしてきた。1987年、唐さんは永安里のエレベーター係となり、毎日仕事場への行き帰りに秀水街を通った。そのころ、英、米両大使館の隣の秀水街という路地の南端に食料品店があり、その前で荷台つきの自転車を引いた行商人が、輸出用の下着や靴下といった類の小物を売っていた。当時の唐さんの月収はわずか38元で、10元貯めるのも一苦労だった。秀水街の物売りたちの商売が日に日に繁盛してゆくのを見ているうちに、唐さんの心は揺れた。しかし母の断固とした反対にあった。「お金が足りないのなら援助してあげるから。今の『鉄飯碗(食いはぐれのない職業)』は何があろうと手放してはダメよ」

それでも唐さんは試してみたかった。まず仕事が終わった後の夕方以降の時間と休みの日にだけ露店で下着を売ってみた。秀水街がにぎわうにつれ、露店の行商人たちは鉄鋼建材などで簡単な店の骨組みを作り始めた。1989年、それまでバラバラだった行商人たちは揃って路地の中に移り、十数軒の小さなバラックの店を構え、取り扱う商品もシルク、工芸品、ブランド商品の模造品などに手を広げていった。大使館街に隣接しているため、買い物客の多くは外国人であった。店主たちはとりあえず覚えた最低限の英会話と電卓を使って、外国人相手に値段の駆け引きをした。このころから、秀水街は国内外の観光客にとってかけがえのないポジションを獲得し、北京を訪れる観光客に「万里の長城にのぼって、故宮を歩いて、北京ダックを食べて、秀水街でショッピング」と言わしめた。

高さ330メートルの国貿中心3期ビルから見た国貿橋一帯
1996年、唐さんは心を決めて安定した仕事を捨て、秀水街の比較的ましな場所に3000元でスペースを借りた。その結果、最初の月だけで5000元以上を稼ぎ出した。

2005年1月、「旧秀水街」は閉鎖され、新たに整備されることになった。3月下旬、「旧秀水街」のそばに、建築面積2万8000平米、1500の店舗が入居する「新秀水街」が正式にオープン。しかし唐さんは「新秀水街」には戻らなかった。狭苦しい路地の中で人々が押し合いへし合いしていたかつてのあの感覚を気に入っていた唐さんは、秀水街からそう遠くない小さなビルの中にスペースを借りた。昔からの馴染みのお客さんたちがこぞって足を運び、商売はますます繁盛し、年間数十万元の利益を上げている。

1995年の年末に秀水街市場にやってきた安徽省出身の徐保和さんは、唐さんとは違って「新秀水街」に店を構えた。借りたのは10平米のスペース。もうこれでかつてのような寒空の中で、寒さにぶるぶる震えなくても済むようになった。

30年あまりを経て、今日の秀水街は「中華老字号(中国の老舗)」がどこよりも密集したマーケットとなった。シルクの「瑞蚨祥」、漢方薬の「同仁堂」、布靴の「内聯昇」などが揃って秀水街の中に支店を構え、国産ブランドファッション、工芸品、パール、シルク、骨董など中国ならではの商品が並べられた。より整備された管理のもとで、ブランド品の模造品は姿を消していった。

北京オリンピック開催期間中、各国のオリンピック代表団が必ず足を運んだのが「鳥の巣」と「秀水街」の2ヵ所であった。国際オリンピック委員会のロゲ会長夫人は6回もここを訪れ、男子水泳金メダリストのマイケル・フェルプスの母は息子の名刺を手に商品を値切り、話題をさらった。統計によれば、2008年8月1日から9月19日、「秀水街」が迎えた外国人客はのべ160万人。8月19日にはその日1日だけで53000人が訪れ、これまでの記録を塗り替えた。

中国のマンハッタンを目指す北京CBD

発展の目ざましいCBDエリア

秀水街から東へ向かったそう遠くない場所が、CBDの中心エリアとなっている。このあたりは大北窯という名の示す通り、土がきめ細かく、いいレンガの焼ける窯がいたるところに広がっていた。

1949年新中国成立後、この地に北京第一工作機械工場が建設された。1964年から丸々40年この工場で働いた童徳培さんが、大北窯の今と昔の正確な位置関係を説明してくれた。大北窯交差点の南西の第一工作機械工場があった場所には、現在建外SOHO、銀泰中心(パークハイアットホテルなどを含む複合施設)が建っている。また国貿中心の場所には金属部材工場があり、大北窯交差点の東南と東北の角には、それぞれ原子力器械工場、電線ケーブル工場などがあったと言う。

「かつてこの地域は荒涼とした土地で、周囲にはいくつかの工場があるだけで、林と草むらに囲まれていた。親方の奥さんが2日おきに弁当箱に入ったマツタケを届けにきていた」と童さんは懐かしそうに語る。そのころの長安街は現在の半分にも満たない幅の道路で、道の両側には背の高いヤナギの並木と排水溝があり、住宅はなく、バスは1路と9路の2路線しか通っていなかった。「毎日仕事を終えると自転車に乗って、仲間たちと一緒に歌を唄い、はしゃぎながら長安街をのびのびと走ったものです。大きな笑い声を響かせて・・・・・・」

北京第一工作機械工場は全国でも有名な「18羅漢企業」の1つとして、たびたび外国からの来客を受け入れた。1971年に中国を訪問した米国のヘンリー・キッシンジャー博士が参観に訪れたとき、大北窯一帯には一番高い建物でも3階までしかなかったという。

やがて、大企業が次々に進出し、大北窯は北京の主要工業基地となった。80年代以来、多くの外国機構が朝陽区に続々と拠点を置くようになり、市の東部は外国機構の北京事務所が集中するエリアとなった。続いて、グローバルな大企業、国際機構の北京事務所やサービス業、製造業に従事する外資系投資企業なども朝陽区に落ちついた。

1993年、北京市はCBD建設計画を打ち出し、その5年後には具体的な範囲を定めた。北京第一工作機械工場はCBDの核心的な位置にあり、立ち退きは必然であった。この地に思い入れのある童さんはたまらない気持ちになったという。しかし、設備もスタッフもすでに老朽化した工場は発展、改革の必要があり、古きを捨てて新しきを建てなくてはならいことは彼にもわかっていた。2002年の年末、北京第一工作機械工場が最初の建築の解体を始めたとき、その解体されてゆく食堂の前に古くからの職員たちがどっと押し寄せ、少なからぬ人が涙を流しながら見守った。

2000年以来、北京CBDの建設は歩調を速め、建外SOHO、SK大廈などのモダンな高層ビルの建設に次々に着手。2003年6月には、高さ249.9メートルの「北京でもっとも高いビル」と称して銀泰中心の建設が始まった。しかし、竣工前に、長安街を挟んだ向かいの国貿中心で建設が始まった3期ビルが、高さ330メートルで銀泰中心を抜いて「竜の頭(北京一高いビル)」となった。現在のところ、北京財富中心(フォーチューン・プラザ)、中央テレビ新社屋、国貿中心が、CBDのゆるぎないシンボルとなっている。

現在、北京CBDの3990平米のエリア内には、米『フォーチュン』誌の世界企業ランキング500社のうちの114社及び多数のグローバルな企業が集中し、毎日およそ百万人のホワイトカラーの人々がこのエリアに出勤、そしてここで消費している。北京CBDは中国のマンハッタンたらんとして発展を続けている。

2008年5月、北京第一工作機械最後の古い建物が解体された。北京CBDは大北窯工業時代にきっぱりと別れを告げ、イメージを一新して現代のビジネス時代へと突入したのである。

 

人民中国インターネット版 2009年3月1日

 

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