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紆余曲折を経た「三通」の実現

張春侠=文

2008年12月15日は、歴史に記載されるべき重要な日である。数々の紆余曲折と困難を経て、いよいよ台湾海峡両岸の海運貨物の直行便が就航、航空機直行便の運航、郵便輸送などが全面的に始まり、両岸の同胞が待ちに待った夢が現実となった。

2008年7月4日、海峡両岸の週末チャーター便が飛び、大陸住民の台湾旅行が始まった。福建省の住民の団体ツアーが初めて、アモイから台湾へ向かった(写真・姚凡)

しかし、こうしてこの狭い海峡を越えるには、数十年という歳月を待たねばならなかった。

『台湾の同胞に告ぐる書』から始まる

台湾は、古来から切り離すことのできない中国の領土の一部である。早くは三国時代に、呉の孫権が派遣した衛温将軍率いる水軍が、海峡を越えて夷洲(当時の台湾の呼称)に渡っている。1945年7月、中、米、英三国は『ポツダム宣言』に署名し、あらためて台湾と大陸が切り離せない関係であることを明確にしている。 

2007年4月28日、胡錦濤中国共産党総書記(前列右から3人目)は北京の人民大会堂で、連戦・中国国民党名誉主席(前列右端)ら第3回両岸経済貿易文化フォーラムに参加した来賓たちと会見した

しかし、1949年、当時の内戦において敗北した国民党政権が、台湾に退いて以来、台湾海峡両岸は軍事的なにらみ合いが始まり、通商、通航、通郵及び人員の往来が長期にわたってすべて中断された。当時、どれほど数多くの家族が生き別れ、死に別れ、肉親が離れ離れになるという悲劇に見舞われたことだろう。

1978年末まで、海峡両岸においてさまざまな規模の摩擦が続いてきた。1979年の元旦、全国人民代表大会常務委員会が『台湾の同胞に告ぐる書』を発表し、平和統一の方針を提起し、初めて両岸における「双方ができるだけ早く両岸の直接の通商、通航、通郵を実現させること」を提唱した。ここから「三通」という概念が生まれた。その日、当時の徐向前国防部長(国防大臣)によって金門島への砲撃が停止され、30年近く続いた軍事対峙がようやく終結した。

『台湾の同胞に告ぐる書』が発表されると、大陸の多くの部門の責任者が相次いで談話を発表し、台湾の関係部門といつでも両岸の通商、通航、通郵問題について話し合う準備があること、並びに両岸の「三通」のためにあらゆる便宜を提供する準備があることを示した。

1979年2月、大陸の郵便・電信部門が真っ先に、第三地点を経由しての台湾に対する電報電信業務をスタート。さらに3月には台湾への長距離電話業務も始まり、5月、6月には相次いで台湾への普通郵便及び書留郵便業務の受理を開始した(香港郵便局経由の転送)。

2001年10月11、12の両日、台湾の新党の馮滬祥「立法委員」(右端)を団長とする「両岸航空直航訪問団」が北京で、大陸の「海協会」、中国民航総局と「三通」について協議した

1979年以降、大陸は台湾製品に市場を開放し、積極的に大型のバイヤーミッションを香港に派遣して台湾製品を購入し、台湾商工業界の企業の大陸への投資、代表機構の設立、業務展開を開放した。

両岸関係の発展をさらに一歩推し進めるため、1981年9月30日、全国人民代表大会常務委員会の葉剣英委員長が九項目の『台湾の祖国復帰と平和的統一の実現に関する方針』を発表し、「双方が共同で通商、通航、通郵、親族訪問、旅行及び学術、文化、体育交流に便宜を提供し、関連協議を結ぶ」よう呼びかけた。

1982年、鄧小平氏がさらに「一国二制度」の構想を打ち出し、台湾に強烈な反応を引き起こした。かつて「老兵の帰郷運動」を発起し、香港を経由して大陸に入り、広州、上海などを転々として故郷の浙江省舟山に帰った台湾同胞は言った。「故郷に帰ることが実現する前、たびたび夢を見ました。夢の中でこんなふうに飛行機、列車を乗り継いで故郷に帰り、ようやく母の姿を目にして大声をあげて泣いたところで、妻に揺り起こされて目を醒ましたものです」

ひところ老兵たちが帰郷・親族訪問し、台湾の人々の間でルーツをたずねる旅がブームとなり、両岸和解の糸口が見えてきた。

 

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