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「山寨」は中国に何をもたらすか

 

1984年静岡県うまれ。現在、日本国費留学生として、北京大学国際関係学院に在籍。学業の傍ら、中国のメディアで、コラムニスト、コメンテーターを務める。『七日談~民間からの日中対話録』(共著、新華出版社)
雪害、大地震、金融危機。北京五輪が盛大に終わった一方、2008年はさまざまなアクシデントに見舞われた。「喜怒哀楽の一年」は歴史の一ページとして教科書に、そして人々の心に刻まれ、末永く語り継がれるであろう。そんなシンボリックな年に、21世紀の中国を象徴するかのような現象が出てきた。「山寨」である。

「山寨携帯」「山寨ノートパソコン」「山寨ネット」「山寨映画」「山寨スター」「山寨文化」「山寨経済」……

「山寨」とはいったい何なのか。中国随一のサーチエンジン「百度」で検索すると、4060万件出てくる。

「山寨」とは本来、盗賊などが役人の目を逃れて隠れた砦を意味したが、その後、人々の手によって新定義が生み出される。海賊版、クローン、コピー……。日本的に言えば、「パクリ文化」と解釈できるかもしれない。

携帯電話、ノートパソコンなどIT分野を中心に、中国で人気のある外資系の携帯などを徹底的に研究し、「限りなくそっくり」に開発し、半額以下の価格で販売する。「山寨ビジネス」で大もうけした人もいる。「山寨」の消費者も若者を中心にとどまるところを知らない。これに触発されてパクリ映画、パクリスター、パクリ番組など多分野に波及するようになった。

「山寨」現象は2008年に急速に流行りだしたので、「零八山寨」が時代のキーワードとなった。そのことを、是非や良し悪しでは判断できないと私は考える。社会が目まぐるしく変化する一方で、海外から新しい価値や文化が荒波のごとく押し寄せてくる。そんな激烈な環境の下で、人々が「山寨」という一つの現象をめぐってタブーなく語り合えることは、未来を楽観視させてくれる。「改革・開放」の成果とも言える。

先日、1980年代生まれの作家で、圧倒的な人気を誇る27歳の韓寒が、自らのブログで「山寨」に関する文章を発表した。高校中退後、ペンで頭角を現し、甘いルックスで国民的アイドルになった韓寒を、私がずっと注目してきた。韓寒の「山寨」に対するコメントを引用しながら、彼と誌上で架空の対談をしてみると――。

韓寒 「山寨」と海賊版を分けて考えれば事はすべて解決する。たとえば、私が出版した本を他人がまったく同じ形で再出版したとする。これを「海賊版」という。他人が出版した本の作者を「韓寒」としたとする。それは権利侵害。私が過去に出版した本『彼の国』(中国語タイトル『他的国』)をパクって、『私の国』としたとする。これが「山寨」。問題はない。私も気にしない。

加藤 「山寨」、海賊版、権利侵害などあいまいな部分を明確にさえすれば問題ない。ただ公共機関が合理的な制度設計をし、厳格に施行することが前提条件。知的財産権、特許権、ペナルティー制などをオープンにし、普及させなければいけない。あとは国民の教養レベルの問題だ。社会の安定や規範は合理的な制度設計だけでは成り立たない。長期的に見れば、社会・学校・家庭「三位一体」の教育を通じて、国民の素質をじっくりと高めていく以外に道はないだろう。 韓寒 いかなる経済、文化、政治も「山寨」から始まった。「山寨」を忘れることは根本を忘れるのに等しい。我々の祖国も建国当時、「山寨ソ連」であった。

加藤 人間と同じように、国家も真似をするアクターだ。「山寨」とは切っても切り離せない。それは時空を超えたコンセプトであり、人間の環境に対する本能だと思う。

韓寒 「山寨」は人類の歴史が発展する過程において避けては通れない道だ。それが新たな文化を誕生させることもある。ただ、「山寨」のみによって前途を切り開くことは難しい。パクリはあくまでもパクリ。段階的に脱却していく必要がある。

加藤 「山寨」は文化であり結果であるというよりは、現象でありプロセスだ。一つの社会が近代化の道を歩むうえで、国民全体が、「山寨」の競争を展開すべきだ。それは国境を越えて行われるべきかもしれない。それによって新たな協力や巨大な富が生まれる。ただ、真の意味で持続可能な業績を成し遂げるには、「山寨」だけでは足りない。「イノベーション」という境地を追求する必要がある。

 

人民中国インターネット版 2009年7月31日

 

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