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開港150年の横浜と中国

 

中華街の150年

松本努

神奈川新聞社経済部専任部長。1949年生まれ。神奈川新聞社経済部副部長兼論説委員、報道部副部長兼論説委員などを経て、2000年、経済部編集委員兼論説委員。2003年、企画部長。2006年から現職。

横浜港に面した旧市街地の一角に、異国情緒あふれる「街」がある。 華僑・華人が暮らし、飲食店や土産物店を営む「横浜中華街」だ。 この街は開港当時、欧米人とともにやってきた中国人が開いたといわれる。 開港150周年を機に街づくりの歩みをたどるとともに、「中華街の今」を探った。

「唐人街」の誕生

横浜中華街は、世界最大のチャイナ・タウンといわれる。その基礎は、1859年の横浜開港によって築かれた。中国商人が貿易に携わる欧米人とともに来日し、彼らの配下の人々も次々と来日した。

その中でも、「三把刀」といわれる技能者は日本人に新たな生活習慣をもたらし、文明開化の側面からの担い手になった。三把刀とは、はさみ、かみそり、包丁のことで、転じて縫製職人、理髪師、料理人を指すようになった。

これらの技能者は、当時「横浜新田」と呼ばれた現在の中華街の位置にかたまって居住した。ちなみに、中華街の中だけ道路が海岸線と平行していないのは、田んぼのあぜ道だった名残ともいわれる。中国人のコミュニティーの拡大に伴って、この地域は「唐人街」と命名された。

中華街が現在のような「食の街」になったのは、1950年代半ば以降である。それまでは「三把刀」を中心に、あらゆる要望に対応できる業種がそろっていた。その名残で、路地裏には現在も洋装店、理髪店、青果店、食肉店などが並んでいる。

中村川をはさんで中華街の対岸に元町商店街ができたのも、中国人に洋家具製造技術などを学んだ日本人が独立して定住したからだ。この商店街は、製造と販売を同一業者が行う「製販一体」を長い間、売り物にしてきたが、そのビジネスモデルはもともと中華街に存在したのである。

二度も灰燼に

横浜市の他の地域と同様に中華街は、二度も壊滅的な災害にあっている。最初は1923年の関東大震災だ。相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が「唐人街」の建物を倒壊させ、火災の炎が街をなめつくした。死者は、華僑だけでも1500人余にのぼったといわれる。

生き残った華僑の大半は帰国したり、同胞を頼って神戸の南京町や長崎の新地中華街へ引っ越したりした。しかし横浜市内の復興が進むにつれて、少しずつ戻りはじめ、10年後には横浜中華街の人口は約3000人まで回復した。

二度目の災害は、第二次世界大戦末期の1945年に横浜市内を襲ったB‐29のじゅうたん爆撃だ。中華街は再び灰燼に帰してしまったが、華僑は終戦後に戦勝国民の扱いを受け、生活必需物資の優先配分などで経済再建のチャンスをつかんだ。

戦後の闇市から立ち上がった横浜中華街は、駐留軍の「肉食需要」を満たした。朝鮮特需(1950年)でそれが加速し、「食の街」へと傾斜を強めていった。東京オリンピック(1964年)では、外国の食生活への興味が高まり、その後の中華料理ブームにつながった。

街づくりにもこだわり

「横浜中華街」という名称は、意外と新しい。150年前の開港時には「唐人街」と呼ばれていたが、その後、当時の最先端の街だった南京に倣って、日本人が「南京町」と称するようになった。しかし「華僑は一貫して『唐人街』と呼んでいました」と横浜中華街発展会協同組合理事長の林兼正さんは言う。

「唐人街」から「横浜中華街」に変わったのは1955年。当時の平沼亮三横浜市長が、米国・サンフランシスコのチャイナ・タウンに触発されて「善隣門」の建設を発案した際、門に「中華街」としたためたのがきっかけだ。

林さんによると、「南京町」という名称は当時、かなり普及していたが、横浜を代表する観光地としては中国の一都市名はふさわしくないとして、チャイナ・タウンの日本語訳が採用されたという。今では「南京町」は、懐メロ(古い歌謡曲)などに残るだけである。

名称だけでなく、横浜中華街は「中身」(街づくり)にもこだわっている。基本は、「日本人のための中華街」(林さん)だという。英雄・関羽をまつる「関帝廟」は災害に遭うたびに再建され、1990年に造り直された4代目は、中国のものよりすばらしいとほめられている。

開港時、中国古来の「風水」の思想に基づいてつくられた中華街を「再現」する狙いで、1995年から四方を守る色と守護神を配した牌楼を建設。2006年には、街の総意でマンション建設予定地を買い取り、「媽祖廟」も完成した。

こういった努力を無にしないよう、『中華街憲章」』(1995年)や『街づくり協定』(2006年)を制定・締結し、無秩序な開発に歯止めをかけている。華僑・華人の結束の堅さは昔も今も変わらず、それがこの街の発展の原動力になっている。

次世代リーダーが活躍

横浜中華街にとって、画期的なできごとが2004年にあった。地下鉄「みなとみらい(MM)線」が開通し、元町・中華街駅と東急東横線渋谷駅が直通電車で結ばれたのだ。中華街を訪れる人は、それ以前の年間1800万人から2000百万人へと急増。500メートル四方足らずの街に、東京ディズニーリゾートにも匹敵する客が押し寄せた。

それもつかの間、不況の波が直撃し、中華街の店舗は「MM線効果」を実感するまでには至っていない。しかし横浜中華街発展会協同組合の次世代リーダーたちは、昨年秋から「フードフェスティバル」や「中国文化フェア」を開くなど、意気軒昂だ。

「食の街」として「安全・安心」をアピールするのはもとより、「中国文化を受け継ぐ街」であることを再認識してもらうのが狙い。「開港150周年の今年は絶好のチャンス」と、新たに「ランタンまつり」なども企画している。

事業企画部長の鐘上智さんは、内外の大手銀行に16年間勤めて、海外勤務も経験、現在は家業の中華料理店で常務を務める。シンガポール勤務時代に見た「食の祭典」をヒントに、フェスティバルを立ち上げた。

ほかの次世代リーダーたちも、「外の世界」を経験した30~40代の華僑・華人三世だ。理事長の林兼正さんは「視野の広い若い人たちが仲間に入ってくれたので、これから中華街はますます面白くなる」と期待する。

林さん自身は若い人たちにバトンタッチした後、「3つの夢」の実現を目指している。それは孔子廟、中華街資料館、華僑・華人の老人ホームの建設だという。誕生から150年。二度もの壊滅的な災害から立ち直ったこの街は、これからもダイナミックに変わって行きそうだ。(松本努=文 神奈川新聞社=写真提供)

 

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