陳毅おじさんは、中国の10大元帥の1人で、生粋の軍人だったが、新中国成立後の1954年に国務院副総理となり、1958年からは周恩来総理兼外交部長(外務大臣)の後を継いで、外交部長(副総理兼任)として活躍した。陳毅おじさんと言えば「豪放磊落」のイメージを抱く人が多いが、繊細な感性を持った詩人でもあり、気配りの人でもあった。

写真提供=西園寺一晃
私は北京在住時代、何回かお会いしたが、とにかく快活、雄弁で、明るい人であった。日中国交正常化前、日中囲碁交流を推進したことでも知られている。ご本人も無類の囲碁好きであった。いつだったか、「囲碁は戦争と同じなんだ。敵をいかに倒すか、いかに自軍を守るか。陣地の取り合いでもあるしね。敵を包囲してせん滅する。また包囲されても、どうやって活きるかを考えるんだ」「でも囲碁は平和だね、殺し合いは盤面だけだから」と言って、豪快に笑った。確か1963年だったと思うが、日本から囲碁代表団がやってきた。団長は日本棋院の杉内雅男9段だった。盛大な歓迎会が開かれ、陳毅おじさんも出席した。その席上で、陳毅おじさんは私の父にささやいたという。「私も日本のプロに教えを乞いたいので、貴方の家で席を設けてよ」。そんなわけである日、うちでもう一つの「日中囲碁大会」が開かれた。陳毅おじさんの相手は確か関西棋院の宮本直毅8段だった。陳毅おじさんが「同じ名前だから、教えて下さい」と言ったと父から聞いた。陳毅おじさんは家に来るなり、「いやあ、また総理に叱られたよ。私はすぐ思ったことを言ってしまうから、外交部長としては失格かな」と、まるで喜んでいるように大きな声で笑った。陳毅おじさんはこよなく周恩来総理を敬愛していた。叱られることも嬉しいのだろう。宮本8段対陳毅おじさんの勝負は、僅差で宮本8段の勝ちだった。宮本8段に、陳毅おじさんの碁風を聞くと、「豪快な、戦略のある、スケールの大きな碁ですよ」と褒めていた。陳毅おじさんの嬉しそうな笑顔が、今でも目に焼き付いている。勝負が終わり、陳毅おじさんはトイレに立った。なかなか戻らないので見に行くと、厨房に入って、わが家のコックさん、お手伝いさんと話し込んでいた。私たち一家の暮らしぶり、何か困ったことがないか、聞いていたのだ。私にも「友達はできた、学校は楽しい」と聞いてくれた。性格は豪快に見えるが、気配りのすごい人であった。この日中囲碁交流の前に、陳毅おじさんは日本棋院と関西棋院から各「名誉7段」を授与されていた。その後、日本の訪中団と会見する時、囲碁好きの団員からよく「陳毅副総理は何段ですか」と聞かれることがあった。陳毅おじさんは必ずユーモア交じりに「私は世界で一番段位が高いのですよ、なんせ14段ですから」と答えた。なお、陳毅名誉7段は2012年、日本棋院により「囲碁殿堂」入りをしている。
陳毅おじさんは愛妻家としても有名だった。息子の陳昊蘇さんは私と同い年で、良き友人だった。ある時、私が昊蘇さんに「うちの両親は歳が14歳も離れているんだよ」と言ったら、「うちなんか21歳離れているよ」と聞かされ驚いた。夫人の張茜さんはとても美しい人で、陳毅おじさんと対照的に無口で、控えめだが、しっかりした人だった。会うと「学校はどうですか、生活は慣れましたか、私にできることがあったら、何でもしますからね」と言ってくれた。私はふと、陳毅夫妻はずいぶん歳が離れているが、どちらかと言うと天真爛漫な陳毅おじさんを、しっかり者の張茜夫人が、息子の面倒を見るようにサポートしているのかなと思った。
陳毅おじさんは詩人でもあった。息子の昊蘇さんも影響を受けたのかよく詩を書いていた。詩人陳毅の「六国之行・西行」は有名だ。これは1964年、外交部長としてアルジェリア、インドネシアなど6カ国を公式訪問したときのことを謳ったものだ。もともとは「六国之行」だったが、毛沢東主席がこの詩を推敲し、タイトルに「西行」を加え、内容にも朱を入れたという。詩人毛沢東も、陳毅おじさんの詩を高く評価していたのだろう。
陳毅おじさんは、周恩来総理を補佐して日中国交正常化にも少し関わったが、残念ながら正常化実現の8カ月前に亡くなった。私は陳毅おじさんの笑顔が忘れられない。日本にもぜひ来てもらいたかった。1979年、息子の昊蘇さんが、鄧穎超・周恩来夫人が団長を務める訪日団で来日した。鄧ママ、昊蘇さんとは箱根で再会した。お二人の傍に、周恩来総理と、陳毅おじさんがいるようだった。(止)
西園寺一晃 2021年5月21日
人民中国インターネット版 2021年6月24日