中国の指導者たち② 最高の知日派—廖承志

私が両親と共に北京に移住した後、ずっと家族ぐるみのお付き合いをさせていただいたのが廖承志一家だった。長男の廖暉さんは私と同い年、次女の廖茗さんは北京大学の後輩で、妹のような存在だった。

私が初めて廖おじさんにお会いしたのは1954年、東京でだった。李徳全衛生部長が団長の、中国紅十字会訪日団の副団長として来日した時だ。私は当時小学5年生、父親に連れられて宿舎の帝国ホテルに行った。中国人と会うのは初めてだったので緊張していた。廖おじさんは不思議な服(中山服)を着た大きな人だった。「やあよく来たね、君は幾つ」と聞かれて、私はびっくりした。中国人なのに、日本人と同じ日本語を話すではないか。日本生まれで、11年間日本で過ごしたと聞いて納得した。その後再来日し、早稲田大学で学んだそうだ。

 

写真提供=西園寺一晃

両親と共に北京に移住した時、私たちは東京―香港―広州を経て、汽車で北京に向かった。北京駅には懐かしい廖おじさんら多くの人が出迎えてくれた。「かずてる君、ずいぶん大きくなったね。中学3年生だって」と、廖おじさんは強く私の手を握ってくれた。

北京に着いて数日後、突然廖おじさんがわが家にやってきた。紙包みを抱えていた。それを私に渡し、「これを読んで、中国のことがいろいろと分かるよ」と言った。『人民中国』という日本語の雑誌が7、8冊ほどあった。私の中国知識は、廖おじさんに頂いたこれらの『人民中国』から得るところから始まった。天安門のメーデー祝賀大会検閲台上で少年児童隊員から花束を受ける毛澤東主席の写真を表紙にした「創刊号」もあった。

私は廖おじさんから「君は私と逆だ、私は子どもの頃と大学時代を東京で過ごした。君はこれから北京での学生生活が始まる。たくさん良い友人を作るんだね」と言われた。ある時廖おじさんは、「私は日本が大好きだ。でも祖国中国と大好きな日本が不正常な関係にあるのが悲しい」と言って、「実はこのことが私の負担となっていた。ある人たちは、私のことを『親日派』と陰口を叩いた」と話してくれた。廖おじさんは悩み、それを最も信頼する周恩来総理に打ち明けたという。廖おじさんは「周恩来総理に叱られ、そして激励された」と言った。周総理は、日本が好きで何が悪い、私たちは日本の多くの国民と仲良くするために頑張っている。敵は一部の軍国主義者だ。君は日本のことを良く知っていて、友人も多い。これは君の大きな財産であり武器だ。それを大いに役立ててほしい。どんな時も日本の友人との関係を決して絶たないように、と言われたそうだ。廖おじさんは「私はその言葉で吹っ切れた。よし、自信を持って生涯を両国の友好のために尽くそうと思った」と話してくれた。

1960年代、日中関係は悪かったが、両国の民間交流は大いに進んだ。父と廖おじさんは毎日のように会い、日中民間交流の促進について相談し、多くの日本の訪中団と会った。傍で見ていても、まさに寝食を忘れたような活躍ぶりだった。長男の廖暉さんは「父はろくに寝ず、食べず、頭は日中のことばかり、本当に健康が心配だよ」と言っていた。革命後、初めて北京にできた日本料理屋「和風」は、廖おじさんが周総理に提案し、作ったものだ。私の両親も廖おじさんに協力し、準備のため楽しそうに走り回っていた。従業員の和服の着付け、日本式礼儀作法の教育係は私の母の役目だった。「和風」のお陰で、北京に来た日本人、商社の駐在員、新聞記者がどれだけ癒されたことか。

時々、私たち一家は廖承志家を訪れた。廖暉さんは、ハルビンの大学に行っていたので、夏休み以外はいなかった。家には何香凝おばあちゃんがいた。かつて孫文の右腕が蒋介石、左腕が廖仲愷と言われたが、おばあちゃんは廖仲愷の未亡人で、廖おじさんの母親だ。日本語のできる、やさしい人で、訪ねると喜んでくれた。絵の腕前は素人の域を出てると評判だった。廖おじさんも母親の影響か、絵を描くのが好きで、壁には2人の共同創作による山水画が掛けてあった。

廖おじさんは心臓病を患って入院したと聞いて、心を痛めた。私が次女の廖茗さんと連絡を取り合って、父が日本の友人に頼んで送ってもらった心臓の薬を王府井で手渡した。そんなこともあったが、もう昔話になってしまった。父や廖おじさんは天国で、今の日中関係をどう思っているだろうか。(止)

西園寺一晃 2021年5月21日

 

人民中国インターネット版 2021624

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