中国人留学生が早大を目指した理由
当時早大に留学した中国人留学生の主要人物について、江さんは「ルソーの『社会契約論』を翻訳して中国に導入した楊廷棟や、福州で学校を立ち上げ、日本の東北侵略に反対した林長民、初期の北京大学などの高等教育機関で教壇に立った葛祖蘭、銭玄同、陳独秀、李大釗らが挙げられます。後に中日友好を後押しし、国交正常化に大きく貢献した廖承志も早期留学組です」と紹介した。
20世紀初頭、中国人が日本に留学するのは、今のように簡単なことではなかった。公費留学でもない限り、経済的基盤、特に人脈がなければ、相当難しかったことは容易に想像がつく。数々の問題を乗り越えて留学を遂げた彼らは、なぜ東大や慶応ではなく早大を選んだのだろうか。
早稲田大学清国留学生部規定
早大の理念には 「早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を効し、模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す」とある。江さんによると、当時は日本でも権力者の子弟しか東大や慶応に行くことができなかったという。もちろん東大や慶応も志の高い人材の育成をモットーにしていたが、当時の社会、特に農村部においては多くの解決すべき問題を抱えており、優れた人材が必要だった。そこに着目した早大の創設者は「在野精神」を提唱、一定の経済的基盤を持つ家庭の子弟であれば誰でも入学できる教育機関の設立を図ったという。「つまり早大は、創立以来一貫して現実路線を歩む学校なのです。また、早大には『アジアは一つ、隣国同士助け合う』という価値観があり、甲午戦争後には清政府の近代教育強化の方針に積極的に応え、1905年に『学问乃是天下公器,不该归一国一人所有,况且与中国疆域相邻,人种相同,其学术曾由吾等向其求之,其文字仍由吾等用之,自古以来和睦相处,以吾等所长弥补其不足之处乃是回报旧德,正是文化必得发扬之处』(学問は公共のものであり、一つの国と人に帰属すべきではない。さらに中国に隣接し、同じ黄色人種である我が国はかつて学問を中国に求め、その文字は今も我が国で使われている。古くから仲睦まじい関係だった我々の間では、互いの長所をもって短所を補うことは過去の恩に報いることであり、まさに文化を発揮すべきところでもある)を主旨とした、予科1年、本科2年、研究科1年の「清国留学生部」を設立した。
早大留学中の李大釗(1列目左から3番目)
1905~10年の5年間に、早大は中国の派遣留学生2000人余りを受け入れ、日本で最も中国人留学生の人数が多い大学となった。中国に戻った学生の多くは学校を設立して教育に携わり、その弟子たちも自然と早大を留学の第一志望に選ぶようになった。「清国留学生部」が閉鎖された後も、早大は積極的に中国人留学生を受け入れ続け、特に政治経済学部は、真理を追求し救いを求める、志を持った若者たちを引きつけた。