社会主義で中国を救う道へ
では、李大釗らは早大で何に出会ったことで、「社会主義で中国を救う」という道を歩み始めたのだろうか。
早大キャンパスには、日本の社会主義運動の先駆者として知られる安部磯雄教授の銅像がある。安部教授の名は、早大野球部の創設者として早慶戦ファンには知られているだろう。経済学者としての安倍教授は、「国民の福祉のために闘う」と唱えていた。留学中の李大釗はその思想に大きく影響を受け、安部教授の家に出向いては教えを請うていたという。日本で社会主義運動を提唱していた先駆者の影響を受け、日本の友人を介して社会運動家の宮崎龍介や吉野作造らの有識者とも出会ったことも、李の将来の専攻や思想に大きく影響した。
早大キャンパスにある安部磯雄教授の銅像
1915年12月、袁世凱が皇帝を名乗った。翌16年の初夏、李大釗は早大での学業を中断し帰国、北京大学で教える合間に、早大で知り合った友人経由で早大の教授から送られた共産主義に関する大量の文献を読み漁った。早大時代の教授や友人たちは何度も北京を訪れ、李や北京大学の教師、学生らと意見を戦わせた。「厳密に言うと、李大釗は日本で共産主義を学んだとは言えません。しかし早大への留学で、日本の進歩的な思想に触れていたことは確かです。当時の日本は大正時代で、社会が比較的安定しており、自由民主の機運が高かったこと、早大がさまざまな人を迎える方針で、学生が種々の思想に触れられたことが影響しているでしょう。李大釗は『救国』か『救民』かの選択において、『生活が苦しい大衆を救う』という方向性を明確にしました。日本の友人に大量の本や文献をもらったことは、李がマルクス主義の観点や共産主義思想を広めるに当たって大きな支えになり、また前進するきっかけになったと思われます」と江さんは分析する。

李大釗を含む多くの中国人留学生が生活を共にした宿舎
「彭湃は李大釗よりも後に留学していますから、状況が多少異なります。1919年以降、社会主義思想が日本国内に広く伝わり、彭湃も大きく影響を受けたのです」と江さんは語る。
留学当初の彭湃は強烈な反日本帝国主義者で、中国人として国を救うことを第一に考えていたため、日本の警察のブラックリストにも名前が載っていた。18年末にはキリスト教思想に触れて博愛を主張し始めたが、後になって社会主義のさまざまな学説に触れたことで、キリスト教思想の限界に気付き、社会主義の研究に没頭するようになった。その後は建設者同盟と労働者同情会に加入し、社会主義の研究の傍ら労働者援助を行い、労働者の生活レベルの向上を図る活動を行った。こうして彭湃は広義での社会主義者となった。
1922年5月4日、帰国した彭湃は海豊の学生を組織し、メーデーの集会とデモを行った。それ以前の19年5月7日、五・四運動のニュースを東京で知った彭は中国青年の愛国運動を指示するデモに参加している。21年5月1日には約1万人が集まった上野公園の集会に参加、帰国後直ちに『双週評論』に日本のメーデーと労働者運動に関する文を発表した。ここからも、早大への留学が彭湃の革命運動に大きく影響したことが見て取れる。

早稲田大学国際部東アジア部門長の江正殷さん(撮影:王朝陽)
初心のままに進む中国共産党
早大に学んだ中国革命の先駆者たちの足跡は、非常に感動的なものだった。「共産党とは、自分のふとんを半分に切って庶民に分け与える人々のことだ」という革命世代の言葉がある。その言葉通り、今までは「人民のより良い生活への憧れが、我々の奮闘する目的である」と強調されてきたが、中国共産党第18回全国代表大会以降は、「人々がより良い生活を送れることが、我々の仕事の出発点であり終着点である」という言葉に変わっている。そして最近の、「新型コロナウイルス感染者を救うためには一切を惜しまない」「『一人残らず』計画通りに脱貧困を実現する」などという言葉が示すように、中国共産党にとって「人民」は何よりも重く、「人民」こそが全てであり、「人民」の生活が幸せであることは、「国にとって最も大切なこと」なのだ。100年以上も昔、党の創設者たちは生活が苦しい大衆の解放と幸福の追求を出発点に、真理を探求し、国を救う方法を模索し続けた。中国共産党はこの100年にわたってさまざまな風雨を経験してきたが、その初心は今も変わらない。(文=于文)
写真提供:早稲田大学
一部画像はネットからの転載
人民中国インターネット版