鄧穎超―周恩来夫人である。でも中国の人は誰も「周恩来夫人」とは呼ばない。本人がそう呼ばれるのを好まないからだ。鄧穎超はこう言う。「私の名前は『周恩来夫人』ではなく鄧穎超です。周恩来は私の夫で、同志です。私たちは互いに尊重し、助け合う独立した人間です」。
中国の人はみな鄧穎超のことを「鄧大姐」(鄧姐さん)と、親しみを込めて呼んでいた。周りの若い人は「鄧媽媽」(鄧ママ)と呼んでいた。

写真提供=西園寺一晃
私が両親と共に周恩来家に招かれて、昼食を一緒にした時の事だ。周夫妻の住居兼執務室である中南海西花庁に着いて、応接室で待っていると、中年の女性がお茶を持って入ってきた。質素な身なりの人で、化粧っけなんかまったくない。私は周家のお手伝いさんだと思った。私が小さな声で「謝謝」と言うと、「中国語お上手ね」といって優しく笑った。そこに周総理が入ってきた。私たちは立って迎えたが、周総理は「どうぞ、お座り下さい」と言って、中年の女性の肩に手をやり、「私の妻の鄧穎超です」と言った。私はびっくりした。とても感じの良い、普通のおばさんが周総理の奥さんなんて思いもよらなかった。周恩来夫人は、きっと美しいチャイナドレスで現れるのだろうと思っていたのだ。
鄧穎超夫人は私の隣に座り、いろいろ話してくれた。主に生活と勉強の話しだった。「中国料理は口に合いますか。日本では魚をたくさん食べるそうですが、北京は内陸部にあるので、魚介類は少ないですよ」、「学校はどうですか。友達や先生は良くしてくれますか。問題があれば、いつでも私に言って来てね」。話を聞いていて、まるで母親に優しく包まれているような、心地良い気持ちになった。この時から、両親は鄧穎超さんを「鄧姐さん」と呼び、私は「鄧ママ」と呼ぶようになった。
その後何度もお目にかかる機会があった。いつも学校での生活と勉学のことを気遣ってくれた。私の中国語が上達すると、「言葉は大事、言葉が上達すると世界が広がるの。今まで見えなかったものが見えてくるわよ」と喜んでくれた。
当時の中国はとても貧しかった。その上、私が高校に進学する頃、大自然災害もあり、多くの人は食べる物にも事欠く状況だった。私は、昼食を学校の食堂で食べていた。普通でも米は貴重で、主食は高粱メシとトウモロコシ粉の饅頭だった。それもなくなり、1日3食サツマイモになった。そんなある日、鄧ママから、お昼は家に帰って食べなさいと言われた。私は「いや、みんなと一緒に学校で食べます」と言うと、「健康を大事にしなさい。貴方は将来両国の懸け橋になるのでしょ」と言われた。次の日、学校に行くと、校長から「君は今日から、昼食は家で食べなさい」と言われた。
鄧ママは様々な肩書を持った大幹部であった。私はどうして周総理や鄧ママはこんなに質素で、こんなに欲がないのだろうかと不思議だった。周総理も鄧ママも、家で履く靴下はツギだらけだった。紺色の木綿の服は洗いさらしで、色が落ちて白いまだらになっていた。家で飲むのはお茶ではなく白湯だった。鄧ママの口癖は「中国はまだ貧しいの、3度の食事ができない人もたくさんいるのよ。私たちも節約しないと。将来豊かになっても、貧しい時のことを忘れてはダメ」。でも鄧ママは楽天家だった。どんな苦しい時でも決して笑顔を忘れないで、周りの人を励ました。私もよく言われた。「失敗を恐れてはダメよ。問題は失敗するかしないかではなく、失敗した時、どういう態度を取るかなの。貴方のような若い人は、たくさん失敗しなさい」。
高校卒業が間近になった頃、担任の先生が初めて教えてくれた。それは、時々周総理や鄧ママの秘書から学校に電話が掛かってきて、私の学校生活はどうか、勉学はうまくいっているか、何か問題はないかと聞いてきたという。あれほど多忙な人が、気にかけてくれていたのだ。私はもっと頑張らねばと思った。
鄧ママは花が好きで、家の前には花壇があった。海棠の花が特に好きだった。西花庁の庭には2本の桜の木が植えてあったが、いつだったか鄧ママは、「桜の木が枯れてしまったの、悲しいわ」と嘆いていた。「子どもは花よ、すくすく育って、大きな花を咲かせるの。だから子どもは国の宝なの」。鄧ママには子どもがいなかったが、革命で倒れた多くの烈士の遺児をかわいがっていた。休みの日には、多くの遺児が訪れたが、鄧ママは、手作りの料理でもてなした。母親のように包み込んでくれる優しい人だった。(止)
西園寺一晃 2021年5月21日
人民中国インターネット版 2021年6月29日