―中日国交正常化から改革開放まで― バンカー・大久保勲さんが見た中国の発展と2人の総理(下)

文=大久保勲

 

1980年代の北京長安街(写真提供:大久保勲)

中日国交正常化以前、東京から北京に行くには香港で 入国しなければならず、片道3日かかっていたと、当時を知る人々は口を揃えて言う。中国に渡航できる日本人が非常に少なかった当時のこと、駐在して仕事をする日本人はごくごくわずかだった。さらに通信手段の発展が遅れていた当時は情報伝達の手段も限られ、中国に常駐してその発展と大きな変化を身をもって体験した人々の証言は、今となっては非常に貴重なものとなっている。

かつて東京銀行(現三菱UFJ銀行)の中国総代表を務めた大久保勲さんも、そんな貴重な経験を持つ一人だ。大久保さんは30代半ばで北京駐在を命ぜられ、中日国交正常化という歴史的瞬間を目の当たりにした。そして1980年代から90年代にかけて中国事務所の総代表として改革開放の実施や鄧小平の「南方談話」の発表による変化を体験した。つまり大久保さんは、中国共産党が中日間の良好な友好関係のために力を尽くし、中日関係の回復と発展に努め、国民を率いて経済発展を遂げてきた姿を見守り続けた、まさに奇跡的な証人と言える。

中国共産党創立100周年に際し、東京支局は大久保さんに寄稿を依頼。バンカーの目から見た中国の発展の軌跡と2人の総理にまつわるエピソードを記してもらった。

 

1996年、大久保さんは東京三菱銀行中国総代表に就任した(写真提供:大久保勲)

 

7812月の党の第11期三中全会で改革開放が決まり、1222日、私は勤務先の東京銀行(現三菱UFJ銀行)の柏木頭取に随行し、上海宝山製鉄所の起工式に参加した。その日の深夜、中国銀行向けの20億ドルという巨額のシンジケートローンの交渉が始まった。802月、東京銀行は外資銀行として世界で初めての北京駐在員事務所を開設した。

 

1980年代に東京銀行北京事務所があった北京飯店(写真提供:大久保勲)

 

809月、朱鎔基氏が中国国際信託投資公司代表団の一員として初めて訪日した。当時の肩書は、国家経済委員会生産綜合局副局長であった。私は83年から86年まで、銀行の北京事務所長として北京飯店の事務所で働いた。中央テレビ局から『人民中国』35周年の記念番組を作りたいので、読者としてインタビューをしたいとの申し入れがあり、快諾した。この番組は日曜日午後3時からの日本語の時間に放映される、中国全土向けの人気番組で、山口百恵が出演する映画なども放映されていた。当時の北京は新しいホテルやレストランが出来たりして、明るく活気に満ちていた。まだスマホはなく、電話事情は良くなかった。街を走る車はまだ少なかった。

87年に朱鎔基氏は上海市長に就任し、895月に横浜博覧会参加のため訪日した。

私は朱鎔基上海市長に、上海や東京で何度もお会いすることができた。通産省(現経済産業省)が約100名の代表団を上海に派遣した時、朱鎔基上海市長は、「私は欧米派といわれるが、この中にも友人がいる」と言って、日本興業銀行(現みずほ銀行)の小林實常務調査部長と私の名を挙げるなど細かい配慮を示してくれ、とても光栄に思った。

朱鎔基上海市長時代の904月、上海浦東開発区建設が正式に決まった。浦東開発区では、経済特区や経済技術開発区の政策が全面的に実施され、上海では外資銀行等の支店を認めたり、上海証券取引所が開設されたり、外高橋に開放度の高い保税区が設立されたりした。南浦大橋は91年、楊浦大橋は93年に開通した。

 

1993年、上海の楊浦大橋が開通(写真提供:大久保勲)

 

914月、朱鎔基氏は副総理に任命され、937月からは中国人民銀行行長(95年まで)を兼務し、金融秩序の整頓を強く訴えた。92年1~2月、鄧小平は深圳、珠海、上海などを視察し、改革開放と経済発展の加速を提起した「南方談話」がなされ、同年10月の第14回党大会では、「社会主義市場経済」という概念が提起された。933月の第8期全人代第1回会議では、憲法第15条が「国家は社会主義市場経済を実施する」と改められ、同年11月に開催された党の第14期三中全会では、「党中央の社会主義市場経済体制確立の若干の問題に関する決定」が採択された。「決定」に基づいて、941月から分税制、所得税の統一を骨子とする財政税制改革、中央銀行制度の整備、政策銀行の設立といった金融改革が実施され、また、為替相場の一本化と外貨兌換券の廃止が実現した。

 

1994年、北京の人民大会堂で朱鎔基副総理(当時)と会見する大久保さん(写真提供:大久保勲)

 

私は94年の北京の人民大会堂で、朱鎔基副総理に笑顔で迎えていただいたことを、昨日のことのようにありがたく覚えている。

957月、東京銀行は外資銀行として世界で初めての北京支店を開設した。 

中国は86年にGATT(関税および貿易に関する一般協定)に、GATT締約国としての中国の地位を回復する申請を行った。ウルグアイラウンド(ガットの新多角的貿易交渉)は、944月世界貿易機関(WTO)の設立を決めた。中国は引き続き多くの重大な改革を行い、市場開放に努め、朱鎔基総理時代の200112月に、WTOへの加盟が実現した。

941月、外為体制改革が行われ、人民元相場は1米ドル=8.7元に統一された。96年に中国は国際通貨基金(IMF8条国になった。経常取引、つまり貿易取引と留学など貿易外取引について、外貨が必要な時、人民元で外貨が買えるようになった。97年にはアジア通貨危機が起きた。国際市場では、人民元は切り下げ不可避との観測が広がったが、983月に国務院総理となった朱鎔基氏は、「中国政府は人民元を切り下げない政策を堅持する」と強調し、断固として人民元の切り下げをしなかった。

朱氏を陰で支えた日本のエコノミスト宮崎勇さんが亡くなった20161月に、朱氏は弔電で最大の賛辞を送った。私は仕事に厳しかった朱氏の人間味あふれる暖かな一面を改めて見た。

78年の第11期三中全会から今日まで40余年にわたり、中国は断固として改革開放を行ってきた。中国が高い経済成長を実現できたのは、改革開放政策のおかげと言っても過言ではない。

中国はさらに高い水準の対外開放を実行しようとしている。「天の時、地の利、人の和」は必ず中国の発展に味方する、と私は信じている。

 

1980年代、経済学者の宮崎勇氏が日本深圳合作会の活動に参加した時の様子(写真提供:大久保勲)

 

東京銀行(現三菱UFJ銀行)の駐中総代表をつとめた大久保さん(写真提供:大久保勲)

 

人民中国インターネット版 202175

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