ボクの職場は故宮です!――考古学の視点で修繕

 

自身が修繕に関わった古建築の屋根の上に座る呉偉さん

 

「どこで働いているんですか」と聞かれるたび、呉偉さんは「大内(中国古代の城、宮殿のこと)」と答える。彼の微信(ウイーチャット、中国版LINE)のアイコン画像も「大内」という2文字だ。今年で30歳になる呉偉さんは、「故宮で建物を修繕する人」と自称している。2013年に南京大学考古学部の修士を修了後、故宮博物院に就職した。もともとは古建築部で働きたかったが、ひょんなことから工事管理部に配属された。

呉偉さんは「最初は、管理部門に来てしまったと少しがっかりしました。でも今は、ここに来て本当に良かったと思っています」と話す。彼は故宮の宝蘊楼、大高玄殿の修繕工事に相次いで携わり、古建築を考古学の視点から扱う人物になった。

屋根の上の考古学

2006年、呉偉さんは南京大学歴史学部に入学した。ある考古学専攻の先輩に「考古学はいいよ。どこにでも行けるし、新しいものに触れられるし」と言われたのをきっかけに、彼はつい考古学専攻にくら替えした。「私はじっとしていられないタイプで、好奇心がとても強い。考古学にのめり込んでからは、考古学が性に合っていると感じました」と言う。大学院で研究の方向性に悩んでいるとき、呉偉さんは学部生時代に受けた「中国古建築史」という授業を思い出した。その授業の先生は、考古学の方法を用いて中国の古建築を研究しており、それがとても印象に残っていた。そのため、彼は古建築研究の道へ進むことを決めた。

1310月、呉偉さんは故宮博物院に就職し、各修繕プロジェクトの全体を統括する工事管理部に配属された。研修期間を経て、彼は故宮の宝蘊楼の修繕プロジェクトに携わることになった。故宮で修繕作業中の古建築のほとんどが、修復せざるを得ない状況にある。初めて宝蘊楼の内部に入った際、屋根からは雨水が漏れ、床に置かれたプラスチック容器に水がたまっているのを見て、彼の心は痛んだ。また、初めて宝蘊楼の屋根に上ったときには、興奮のあまりマスクを着けるのも忘れ、百年の歳月を積み重ねたホコリを胸いっぱいに吸い込んだ。それまで本でしか見たことのなかった古建築の構造が、目の前にはっきりと広がっており、彼は無我夢中になった。「私が学んだのは考古学です。古建築を未発掘の考古遺跡だとすると、建物は一つの巨大なトレンチ(考古学において遺跡の発掘調査をするために掘られる溝のこと)です。毎日建物の中で歴史を発見します。これを私は『屋根の上の考古学』といっています」と呉偉さんは語る。

 

屋根の上で瓦のサイズを測り、特徴や推定年代を記録する

 

実践で自分を鍛える

15年4月、呉偉さんは宝蘊楼の修繕プロジェクトを経験した後、大高玄殿修繕プロジェクトの現場責任者になった。大高玄殿は故宮の「飛び地」で、故宮の城壁の中ではなく景山公園の西側にあり、明清両時代の皇族専用道教寺院である。彼はこう言う。「私は運がいいです。これは私の人生で最大のプロジェクトかもしれませんね。大高玄殿内の主な建物は全て解体され、瓦、木、油絵といった大切な要素もいくつも取り扱われ、4050人のチームは徹底的に鍛え上げられました。古建築の修繕は通常、着工する前に、実地調査や測量製図が必要とされ、プランも提出されます。しかし、伝統的な中国の木造建築物は榫卯構造(木と木を組み合わせてつくる中国古代の建築方法、ほぞ接ぎ)で組み立てられているため、目に見えない隠れている部分がたくさんあります。実際の構造がどうなっているのかは、解体してみないと分かりません。そのため、私たち工事管理部の担当者は現場で実際に見て、その状況によって、逐一プランを調整して改善していく必要があります」

工事管理の担当者として、呉偉さんは実際の現場作業には参加しないが、現場の作業員たちと話すのが大好きだという。「お恥ずかしい話ですが、ここに来たばかりの頃、他の人たちが話す専門用語が全然分かりませんでした。例えば、瓦の「圧七露三」(雨水を防ぐための瓦の葺き方)とか、吻獣(屋根上の装飾、しゃちほこ)の各部分の名前とか」。そのため、呉偉さんは分からないことがあると、すぐに現場の担当者に聞く。「彼らが何をしているのか、どんな材料を使っているのかが分かれば、工程もきちんと管理することができます」

時間がたつにつれ、呉偉さんは施工会社の「粗探し」をするのがさらに上手くなった。例えば、釘望板(屋根板ともいう。垂木の上に敷設される板のこと)は西洋くぎではなく中国古代で使われていた伝統的なくぎを使わなければいけない、半製品のれんがはたたき割り、磨き上げることが必要で、それは手作業で行なわなければならず、機械は使用できない__などだ。

建築と対話する

呉偉さんにとって、古建築修繕の理念は重要である。大高玄殿の後殿「九天応元雷壇」の屋根は、八カ国連合軍が中国に攻め入った際に焼失した。残された斗栱(中国の木造建築で柱の上に置かれて軒などの上部構造を支える部材)の下の部分は明代の建築だが、木造で作られた屋根の骨組みは清代の光緒帝(在位1875~1908年)の時代に建て直されたものである。もし今この屋根を修復しようとしたら、その基準は明代になるのか、それとも清代になるのか。呉偉さんは、その焼失された歴史がなければ明代の様子に従って修繕すべきだが、光緒帝時代の建て直しもやはり無視できない歴史であると考えている。「修繕しすぎるのを防ぎたいと思っています。さまざまな歴史過程の情報は、残せるものは残し、残せないとしても、それを記録しなければなりません」

修繕過程の中で、彼は絶えず興味深い発見をしている。例えば、九天応元雷壇の屋根を開くと、木造構造の東西両側は全く異なる榫卯の作り方が使われていたことを発見した。これは、その当時二つの工事チームが同時に工事を進め、それぞれ受け継いだ技術が異なった上に、お互いに妥協しなかった可能性があるという。呉偉さんによると、このことは記録にも残っていないし、工事前の実地調査や測量製図でも気付けない。施工途中で、彼が解体された部材を一つ一つ注意深く測量し製図したからこそ、気付けたのである。

「私は考古学を学んできました。考古学の重要な理念の一つは、モノを通じ人を知ることです。出土品を通して、古代の人々の生活や文化、古代社会の変遷や発展を解明します」。彼の目には、当時の職人たちが工事をしていた様子が生き生きと浮かぶようだ。彼らは呉偉さんの周りで忙しくあくせく働いているようだが、実際にはそれは、もう何百年も前の出来事である。

たまに誰もいない大高玄殿にぽつんと一人で立つと、呉偉さんはこの建物が生きているように感じられるという。「建物は物体で、言葉を話せません。でも、ずっと私に自分の過去を語りかけているんです。毎回何か新たなことを発見するたび、すごく興奮して、この建物に『君にやっと顔向けができるよ。できる限り君のことを記録して、これからレポートを書くからね。君の物語を書くみたいに』といつも言っています」

取材後、呉偉さんは自転車に乗り、故宮の入り口で曲がると姿が見えなくなった。故宮で自転車に乗る――それはかつてのラストエンペラー溥儀のみに許された待遇だった。(蒋肖斌=文 王丹丹=写真

 

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