中日貿易の先達・武吉次朗さん 新中国と歩んだ「あの頃」

于文=文

中国で木こりから会計士まで様々な仕事を経験し、帰国後の人生を中日交流事業に捧げた武吉次朗さんは、今年87歳を迎えた。名前と連絡先だけが書かれた名刺を差し出しながら、「今は無冠の気楽な身です」と流ちょうな中国語で語る。

日本国際貿易促進協会で常務理事をつとめ、翻訳家としても著名な武吉さんは、カバンから大量の貴重な写真や資料を取り出し、様々な「物語」を聞かせてくれた。毛沢東、周恩来、鄧小平など歴代の指導者との集合写真や、1964年に行われた新中国成立15周年の国慶節祝賀式典の招待状、そして母国語レベルの中国語。「ただ者ではない」と思わず背筋が伸びる。

 

1964年に行われた国慶節15周年式典の招待状

1945年に日本が降伏した時、中国にいた武吉さん一家は一家離散の憂き目に遭った。武吉さんはひとりでの生活を余儀なくされ、鉱山労働者から東北非鉄金属管理局、そしてまた河南省対外貿易局と職場を転々とし、普通の中国人と同じ生活を十数年送った。58年の帰国後、中日貿易関係の仕事に従事することを決意。中日国交正常化や改革開放当時の経済貿易訪中団のメンバーリストには、常に武吉さんの名前があった。中華人民共和国成立70周年の節目を迎えるにあたり、新中国と歩みをともにした武吉さんが見た数々の輝かしい歴史的瞬間を語ってもらった。 

 日本の旧制中学の制服を着た戦時中の武吉さん(左)

と中山服を着た武吉さん。1958年の帰国時に撮影(右)

人民に奉仕する

1947年、国民党軍が延安を占領したとの情報が流れてくると、武吉さんとともに解放戦争支援のため中国に残った日本人は「もうおしまいだ。共産党軍が負けたら我々もシベリア行きだ」と悲嘆に暮れたが、職場の党幹部たちは「我々は国民党の米国式装備を奪い戦っている。ほどなく中国全土が解放されるよ」と自信たっぷりに武吉さんたちに言った。そんな話は夢物語にしか感じられなかったが、その言葉の通り翌年には東北全域が解放され、そのまた翌年には中華人民共和国が成立した。ボロをまとい、装備も不十分な部隊が、なぜ中国全土を解放することができたのだろうか。武吉さんはある体験から、その答えを導き出す。

「『人民服』(人民に奉仕する)。これを単なるスローガンではなく、党指導者や幹部は行動で私たちに示してくれました」と武吉さんは語る。上司は武吉さんに「何か困ったことはないか」と常に聞いてきて、生活上の配慮は実に行き届いていた。また別の上司は、武吉さんが読書好きで中国語学習に熱心と知ると、出張で街へ出るたびに本を買ってきてくれた。

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