中日貿易の先達・武吉次朗さん 新中国と歩んだ「あの頃」

 

ある日、武吉さんに大きな衝撃を与える「事件」が起こった。

「私は人生で一度だけ人を殴ったことがあります。それは同僚に『日本鬼子』と呼ばれた時でした。あの時はカッとなり、思わず手が出てしまった」。武吉さんは回顧する。当然厳罰が下るだろうと覚悟した。しかし上司は武吉さんに対しては「修行が足りんな」と言っただけで、むしろ同僚に対して「武吉は『日本鬼子』ではない。君の友人であり、同志なのだ」と厳しく批判、殴られた同僚が殴った武吉さんに謝罪する結末になったという。「解放軍にいた日本人の友人も、同じような原因で殴り合いのケンカになったのですが、彼の上司も『殴り合いは良くない』と諌めたあとに、彼だけを呼んで『部下の教育不足で君を傷つけてしまった。申し訳ない』と謝ったそうです。共産党幹部の言動から、私は『為人民服務(人民に奉仕する)』を心底感じ取ることができました。だからこそ、中国共産党は抗日戦争や解放戦争に勝利し、新中国建設を実現できたのでしょう」と体験を語る。

 

1967626日、周恩来総理が日本国際貿易促進協会の萩原定司専務理事一行と会見した際には、武吉さんも同席した

解放後、確実に向上した市民生活

新中国が成立した1949年、武吉さんは黒龍江省樺南県駝腰子にある金鉱局の職員になり、50年の夏、上司とともに瀋陽の東北有色金属管理局に3カ月間出張した。折しも625日に朝鮮戦争が勃発。同年9月、米軍は鴨緑江まで迫ってきていた。新中国が初めての国慶節(建国記念日)を迎えようとする頃のことだった。武吉さんと工業管理局の同僚たちは広場で行われた祝賀イベントに参加したが、閲兵式でフル装備の解放軍の部隊が厳粛な面持ちで次々入場してきたのを見て心を打たれた。「あの闘志あふれる雰囲気は今でも忘れられません。あの兵士たちは閲兵式に参加したその足で、朝鮮の戦場へと向かったのです」

武吉さん自身は参戦こそしなかったが、戦局の変化には常に心を揺さぶられた。東北地方の工業部門の全職員は「抗美援朝」(米国に抵抗して朝鮮を援助する)のために募金を行い、武吉さんも月給の1割を毎月募金することに決め、それは537月の休戦協定まで続いた。

成立直後の新中国は、国民党政府が残したインフレと物資の欠乏で混乱のさなかにあった上、新たに発生した戦争にも巻き込まれた。そんななかでも物資が次第に豊富になっていき、人々の生活レベルが年ごとに向上するのがはっきりと感じられた。「2個がつながった大きな石鹸がはやったり、新製品や服の流行が次々生まれたりと、生き生きとした社会生活が営まれていました。そんな生活を与えてくれる共産党を、庶民が支持しないはずはないでしょう」

 

中日国交正常化前、両国間には直行便が就航していなかったため、香港を経由する必要があった。武吉さんは当時の通関書類を今も大切に保管している

 

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