駐日大使9年間に悔いなし−程永華氏 祖国の成長とともに歩んできた40年間

201943日、NHKは当時の程永華駐日中国大使が近く離任するとトップニュースで報じた。程氏の離任は本人の予想を超えて日本を驚かせ、大使館ではその日、報道を確認しようとする問い合わせの電話が鳴り続けた。

その後、日本の政界は慣例を破った一連の手配をし、安倍晋三首相は単独で程氏を昼食に招いた。また、安倍首相夫妻と11人の大臣、140人余りの国会議員が程氏の離任レセプションに参加した。天皇皇后は赤坂御所で程氏夫妻と会見した。程氏はこれにより、新天皇が即位後に初めて正式に会見した外国の来賓となった。

これらの手配に対し、程氏は大いに感慨を覚えた。1973年に第1陣の政府派遣留学生として日本に留学してから、これまで歩んできた40年余りの外交人生を振り返り、彼は「この背後には、両国関係に対する日本の重視度の変化、両国関係の将来の発展に対する日本の期待が反映されています。私個人の外交活動の経験はちょうど中国の改革開放、中日関係の変化と緊密に関わっています」と話した。

1陣の日本留学生に

程氏は新中国初の来日国費留学生として、73年に東京にやって来た。「72年のニクソン訪中後、若い外交官を養成するよう周恩来総理が指示を出して要求しました。そこで外交部は全国で選抜試験を実施し、計約120人を選抜して派遣しました。光栄にも私は選ばれ、日本に留学しました」

しかし、程氏の留学の道も不遇を経験した。そのころ、中日両国は国交を正常化したばかりで、まだ教育交流協定を結んでいなかった。日本から中国へ勉強に来た外交官は語言学院、つまり現在の北京語言大学で学んでいた。外交の対等原則に照らし、日本側も中国人留学生を日本の同等の学校に入学させるよう手配すべきだったが、文部省は両国間に教育交流協定がないことを理由として、国公立大学が中国人留学生の入学を受け入れることに同意しなかった。このため、程氏らはまず政府の規制を受けない私立大学で学ぶほかなかった。7412月、創価学会の池田大作会長が訪中して周恩来総理と会見し、その後、中国人留学生を喜んで受け入れると申し出た。程氏らは創価大学に転学して学んだ。

77年、程氏は創価大学を卒業し、そのまま駐日中国大使館に入って働いた。7810月の鄧小平の訪日時、彼は連絡員の一人として接待や日程調整などの仕事を担当した。

鄧小平は新中国で初めて日本を訪問した指導者として、日本側の破格の待遇を受けた。今でもその情景は程氏の脳裏に鮮明に焼き付いている。「あれは迎賓館赤坂離宮の前庭でした。福田赳夫首相と十数人の大臣、中国側の同行者が注視する中で、五星紅旗が掲げられ、礼砲が一斉に鳴り、儀仗隊が並びました。その時、祖国を誇りに思う気持ちで胸がいっぱいになりました」

さらに忘れられないのは、訪日期間中に鄧小平が将来の中国の発展に対して語った考え方だ。「私たちは彼の部屋に毎日行き、何か連絡の必要なことがあるか聞かなければなりませんでした。彼がとても深く考え込んでいるのをよく目にしました。日本で工場を見学した時、現代化とはどんなことなのかが分かったと彼は独り言を言いました。同じ技術と管理方法を応用した工場を中国に建設するよう、彼はその場で新日鉄と松下電器に頼みました。このほか比較的よく知られ、すでに報道されているものには、鄧小平が新幹線に乗った時の感想があります。彼は『速い、本当に速い。まるでせき立てられ、押されて走っているようだ。私たちにはこの速さこそが必要だ』と言いました。当時、彼が新幹線を称賛したのではないかと説明する人がいました。彼は実際のところ、中国は将来どうすべきなのかを考えていたのだと私個人は理解しています」

地方交流で関係改善模索

鄧小平の訪日が終わった後の同年12月、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)が開催され、中国は改革開放政策の実行を始めた。79年、大平正芳首相(当時)が訪中し、有償資金協力(低金利の円借款)、無償資金協力、技術協力を含む政府開発援助(ODA)を中国に提供することを決定し、これによって改革開放を支えた。30年余り後の20102月、程氏が駐日大使として再び日本に赴いた時、中国の国内総生産(GDP)は初めて日本を超えようとしていた。中日両国の国力の差に変化が起きていた。

過去10年間に中日関係で非常に多くの矛盾や問題、ひいては衝突が発生した根深い原因はここにもあると程氏は考えている。中国に対する一部の日本人の認識は改められておらず、中国の発展をチャンスではなく挑戦と見なしている。

2010年、中日関係は氷を砕いて溶かす経験をし、小泉純一郎政権時代の冷え切った状態からしだいに回復していく段階にあった。当時、日本の首相だった鳩山由紀夫は東アジア共同体などの構想を打ち出し、両国間の友好協力ムードは高まった。

「着任したばかりのころ、私の心の中は期待にあふれ、日本の各界との交流を大いに展開し、各分野で両国の活発な協力を推し進めることを望んでいました。しかし、その年の9月に漁船衝突事件が起き、続いて石原慎太郎都知事が引き起こした島購入事件、日本政府要人による靖国神社参拝などの一連の出来事があり、中日関係に深刻な打撃を与えました。中日関係は国交正常化以降で最も厳しい局面、最も困難な時期を迎えました。しかも、さまざまな矛盾が入り交じっていました。両国関係悪化は民間交流への打撃も引き起こし、両国の民間感情は深く傷つきました」

急転直下の情勢に直面し、程氏は中日関係を一体どう進めるべきなのかを考えた。領土主権の問題に関わる時、また歴史、特に戦争責任認識の問題に関わる時、彼ははっきりと原則を堅持し、祖国の利益を守った。13年、安倍首相が靖国神社を参拝すると、程氏は直ちに外務省に行って抗議し、また日本の新聞に寄稿し、世論を味方に引き入れた。彼は「大使は中国を代表して立場を説明する必要があり、こうした状況下では必ず突き進まなければいけません」と話す。

原則問題で全く妥協しないのと同時に、程氏は両国関係を改善する明るい材料も進んで探し求めた。「東京と地方には温度差があり、中国に対する地方の態度は東京よりも熱心だと私は気付きました。当時の地方の知事や市長の皆さんは私や大使館と交流することを望み、中国と交流し協力することを望んでいました。私は大使館内の会議で、この温度差こそが今後の仕事における努力の方向性だと打ち出しました。ですから、『民をもって官を促す』『経済をもって政治を促す』の後に『地方をもって中央を促す』という一文をまた加えました」

地方交流のほか、青少年交流も大使館が一貫して黙々と努力してきた分野だ。中日関係が最も困難な谷間に落ち込んでいた1214年、日本の大学生が訪中し、中国の大学生が訪日するたびに程氏はできる限り若者と交流して懇談し、皆の感想を聞き、相手国を理解するよう激励した。駐日中国大使館は14年から日本の大学生が中国を訪問するよう招待したり組織したりし、17年と18年には北京大学などと協力して中日大学生1000人交流大会を続けて開催した。「青年の感想には感動させられるものがあります。一般的には、中国との交流前に日本の若者は中国に格別の認識を持っていませんが、交流を通じ、中国人は非常に親切で温かく、日本への中国文化の影響がとても大きいと感じます。これにより若者は中国に改めて親近感を持ち、中国と交流したいと思うようになります。ひいては、そのために今後の仕事の計画や生活の方向性を変える可能性があります。青少年交流は長きにわたって重要な役割を果たすものだと思います」

10年から19年にかけ、程氏は中日関係の第一線で活躍し続け、両国関係の最も変化の激しい時期を経験した。今年5月の離任レセプションで、程氏は「無悔無愧(悔いも恥もない)」の4文字で9年間の任期を総括した。「中日関係が再び正常な発展軌道に戻り、改善と発展の勢いを保てている状況の下、私はバトンを手渡しました。過去9年間、駐日中国大使として悔いも恥もなく、使命と職務を履行しました。将来、中日関係がより大きく、より良く発展し、新たな局面を迎えることを期待しています」

自ら被災地で情報収集

自然災害を前にしても程氏は中国外交の姿を示し、大使館を率いて第一線を堅く守った。

11311日、東日本大震災が発生した。当時、程氏は大使館で行事の資料を準備していた。「強烈な揺れが長く続き、本棚のコップや壁時計が落ちてきました。しゃがんで両足で踏ん張らなければならず、そうしてようやく立っていられました。日本で比較的多くの地震を経験してきましたが、これほど激しいものはありませんでした」

災害の深刻さを悟った程氏はすぐにほかの大使館指導者と緊急指揮部を設置し、応急メカニズムを始動させた。全ての大使館員が大使館の映画ホールに集まり、立ったまま全体会議を開いた。程氏は「党と人民が私たちを見ています。党と人民が私たちを試す時が来ました。厳しい試練に耐え、能力を発揮しましょう。共産党員、中国の外交官であるなら、胸を張らなければいけません。私たちは突き進まなければいけません」と簡潔に激励演説を行った。強烈な余震が続き、福島第1原発の爆発事故が起き、周辺の西側国家の大使館がひそかに東京を離れた状況の下、程氏と全ての大使館員は持ち場を堅く守ると決心した。

11日夜に大使館は最初の作業チームを震源地に近い仙台市に派遣し、被災状況を掌握し、中国人留学生を助けた。現地の人々がほかの土地に避難する時に自衛隊と中国大使館だけが被災地に向かった。留守を守る大使館員は6班に分かれ、311日から21日まで24時間態勢で勤務した。程氏は「中国国内の多くの人たちは日本の親族と連絡が取れず、大使館に問い合わせをしてきました。最後には私たちの携帯電話も電池切れになり、充電しながら連絡を続けました。やけどしそうなほど携帯電話が熱くなったので、つまむようにして電話するほかありませんでした」と振り返る。

信頼できる一次情報を中国国内に伝えるため、程氏は11年に5回被災地に分け入った。「初めて被災地に行ったのは4月初めで、仙台から福島まで海岸線一帯を回り、状況を把握し、情報収集しました。当時、屋根に船が載り、34階のコンクリート建築が地上に横たわり、海岸の小さな集落には赤土が残るだけで、何もなくなっているのをこの目で見ました」

そのころ、海岸線から5の範囲は全て危険区域に指定され、一般人の立ち入りは禁止されていた。程氏はボディーガードと共にためらうことなく被災地に入った。こうした危険について、程氏は「その時は余計なことを考えず、ただ責任感と使命感に突き動かされていました」と話す。

9年にわたって外交の第一線で活躍し、40年にわたって祖国と運命を共にしてきた。中国の国力の変化と中日関係の移り変わりは程氏の外交人生を貫くものだった。彼は中国の外交を展望し、「中国は世界の舞台の中央へ進み、果たす役割は過去とは比べものになりません。現在、中国の外交は全く新しい良好な局面を迎えています。中国の外交事業のために引き続き貢献したいと思っています」と意気込んだ。

 

人民中国インターネット版 2019926

 

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