瀬田裕子・盛中国 中日に響く『赤とんぼ』

王衆一 黄沢西=文

ピアニストの瀬田裕子さんがバイオリニストの盛中国さんと知り合ったのは1986年。その時、盛さんはもう世界的に有名なバイオリニストで、25歳の瀬田裕子さんはピアニストとしてデビューしたばかりだった。盛さんはバイオリンと楽譜を持って東京の瀬田さんの家にやってきて、瀬田さんとセッションした。当時のことを瀬田さんは「合奏したことはなかったですが、すぐに息がぴったり合いました。その日、東京に雪が降っていたことを覚えています」と回想する。それがきっかけで、相手の音楽性を知り、心からの信頼を得た2人は、互いを自身の生活の一部としていった。

87年6月に盛さんは瀬田さんと共に広東省の珠海、深圳、東莞、広州などを巡業した。当時の珠海には調律されていないアップライトピアノが1台あるだけで、グランドピアノがなかった。コンサートで十分に力を発揮できなかった瀬田さんは悔やんで涙を流した。しかし翌年にはグランドピアノが置かれるようになった。「現在は珠海だけでなく、中国各地に超一流のコンサートホールがそろっています。国家の発展と開放に伴い、観客のマナーも向上しています」と瀬田さんは語る。

1994年に結婚し共に生活する中で、2人の絆はますます強くなった。盛さんの家族と暮らすうちに、瀬田さんは中国の伝統的な知識人一家の家族と民族への強い愛着を理解した。「夫の名前の由来について義母から聞いたことがあります。日本軍に侵略されていた時、重慶の防空壕で祖国の隆盛を願った義父の盛雪さんが、長男である夫に盛中国と名付けたのです」

盛さんとの結婚は瀬田さんの人生を変えた。中国の改革開放という背景があったため、2人は中日間や世界各地を渡り歩き、音楽という人類の最も美しいコミュニケーションツールで、美と平和を愛する種子を人々の心にまいた。「おそらく義父は、息子が日本人女性と結婚するとは思ってもいなかったでしょう。結婚してから、私たちはずっと日中友好のために奔走してきました」

盛さんは芸術に命をささげた人だ。盛さんはかつて、「人の寿命は時間で計算するのではなく、濃度で計算するものだ」と語った。「傑出した才能を持っていた夫は、一生をバイオリンと音楽にささげるという使命も担っていました」と、瀬田さんは盛さんをこう評価する。瀬田さんが最も感心し、誇りに思っていることがある。「夫は世界トップレベルの音楽家ですが、祖国の呼び掛けにいつでも応え、『人民の芸術家』と呼ぶにふさわしい人物でした。世界でさらに有名になることよりも、最も美しい芸術を人民にささげることを選んだのです」

盛さんの一周忌に当たる9月8日、呂思清氏や謝楠氏ら中国の一流バイオリニストが記念コンサートに集まり、演奏を披露して祖国と運命を共にした盛さんをしのんだ。

瀬田さんはコンサートで、昨年、盛さんの墓に赤とんぼが飛んできて去ろうとしなかったという話を披露した。2人は童謡『赤とんぼ』を何度も演奏したことがある。生前に録音した盛さんの演奏に合わせて瀬田さんがピアノを弾いた。往年の「おしどり夫婦」を思わせる音色に聞きほれた観客たちは、盛さんが帰って来たかのように感じた。

 

2008年の中日平和友好条約締結30周年記念コンサートで演奏する盛中国さんと瀬田裕子さん。夫婦は中日交流に多大な貢献を果たし、盛氏が亡くなった時は両国の人々が逝去をしのんだ(東方IC

 

人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850