古代の「南のシルクロード」

 哀牢国は、なぜ自ら進んで後漢王朝に帰順したのか。これは一本の古道――南のシルクロードと密接な関係がある、と肖正偉氏は言う。

 張騫(前漢の政治家)が、皇帝の使者として西域に赴き切り開いた北のシルクロードと比べると、南のシルクロードはより古い歴史がある。その別名は「蜀身毒道」(蜀は四川の古称、身毒は古語でインドの音訳)。東は四川省の成都に始まり、雲南省の大理・保山を経て、西はミャンマー、インドへと延びる古代の道だ。この道は最初、戦国時代(紀元前475~同221年)に部分的に作られた普通の道路だった。その後、秦・漢王朝の時代に整備され、次第に古代中国と南アジア、東南アジアをつなぐ要路となった。同時に、当時の進んだ漢民族の文化や食糧生産の方法が、道路沿いに各地に広まった。また、そうした地域に県や郡などを設ける辺境開発に、大きな役割を果たした。

 保山は、ちょうどこの道路の中国側の西にあり、東は大理に接し、西はミャンマーへと伸び、「永昌古道」と称された。かつてここは、西南国境を行き交う商人たちが雲集し、物流と貿易で栄えた町で、今でも保山には多くの文化遺産が残されている。


深い馬蹄の跡がかつて商人が雲集したことを物語る(保山市党委員会宣伝部・写真提供)

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