古代の「南のシルクロード」

 哀牢国は、なぜ自ら進んで後漢王朝に帰順したのか。これは一本の古道――南のシルクロードと密接な関係がある、と肖正偉氏は言う。

 張騫(前漢の政治家)が、皇帝の使者として西域に赴き切り開いた北のシルクロードと比べると、南のシルクロードはより古い歴史がある。その別名は「蜀身毒道」(蜀は四川の古称、身毒は古語でインドの音訳)。東は四川省の成都に始まり、雲南省の大理保山を経て、西はミャンマー、インドへと延びる古代の道だ。この道は最初、戦国時代(紀元前475~同221年)に部分的に作られた普通の道路だった。その後、秦漢王朝の時代に整備され、次第に古代中国と南アジア、東南アジアをつなぐ要路となった。同時に、当時の進んだ漢民族の文化や食糧生産の方法が、道路沿いに各地に広まった。また、そうした地域に県や郡などを設ける辺境開発に、大きな役割を果たした。

 保山は、ちょうどこの道路の中国側の西にあり、東は大理に接し、西はミャンマーへと伸び、「永昌古道」と称された。かつてここは、西南国境を行き交う商人たちが雲集し、物流と貿易で栄えた町で、今でも保山には多くの文化遺産が残されている。



 隆陽区の古い板橋鎮(県に属する行政単位)と金鶏鎮は、南のシルクロードにおける物資の集散地だった。馬が首に付けた鈴をカランカランと音を立てて進んだ隊商は、遠い歴史に消え去った。しかし、古色蒼然とした商店は変わらず通りに軒を連ねる。町のそこかしこに、時間が止まってたたずんでいる。

 唐代に作られた「茶馬古道」と同様、隊商は南のシルクロードでも重要な輸送手段だった。馬の背に茶葉や絹織物などを載せた隊商が、西南の辺境を往来し、途中の村々は宿場町として栄えた。板橋鎮はそんな町の一つだ。

 通り沿いにある一軒の古い茶館に腰を下ろし、1杯2元の茶をすする――ご近所さんたちにとっては、普段の過ごし方だ。お茶代だけで、ひと月の収入は600~700元。わずかなものだが、茶館の女主人万文鳳さん(62)はそれでも十分楽しい。今では、この茶館は隆陽区の無形文化遺産となっていて、その評判を聞いて遠くからやって来る客も少なくない。「1杯10元でも高くないと言う人もいるけど、ご近所さんが来なくなるかもしれないし」とはにかむ万文鳳さん。値段はずっと2元に据え置いたまま。顔なじみたちが毎日やって来ては、気軽におしゃべりを楽しんでほしい――そう願っている。古ぼけた店内に陽の光が差し、温かな茶が心を温めてくれた。






 板橋鎮から東に車で約10分。金鶏古鎮にある食堂「小袋豆腐園」にやって来た。この地方の名物小袋豆腐は、はしでつまみ上げると小さな袋に似ていることから名付けられた。味も形も日本の「がんもどき」に似ている。食べ方はスープ入り肉まんと同じ。まず外側の黄色い薄皮を少しかみ切り、小さな穴を開ける。そして熱さに気を付けながら、ゆっくりと中のミルクのような豆腐スープをすする。口当たりは、若者が好きなアイスクリームの天ぷらといったところか。

 「この豆腐は他のところでは作れないよ」。保山市の無形文化財継承者で、豆腐店のオーナーの高文金さん(58)は胸を張る。「この辺りの水はアルカリ分が強いので、フワフワの豆腐ができるんです。中のスープは後で入れるのではなく、自然にそうなるんですよ」


 

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