世界に踏み出した長沙

  1998年、インドネシア近海で唐代の沈没船が引き上げられ、「黒石号」と命名された。船上には東南アジアを経て世界各地へ運ばれる中国の貨物が積まれており、その中に5万点余りの長沙窯の磁器があった。

 長沙の銅官窯は唐代の有名な海外向けの磁器を作る窯で、その磁器のデザインは他の民族や地域の文化的要素を大胆に取り込んでおり、唐代の中国と海外の文化交流の明らかな証拠となっている。当時の磁器貿易は湘江から出航して、長江に沿って進み商業が栄えている揚州に着き、さらに寧波や広州などの港から海に出て、遠くアフリカまで達していた。唐代には、長沙はすでに西アジアや北アフリカに通じる海上シルクロードとつながっていたことが分かる。統計によれば、朝鮮や日本などを含む29の国・地域で長沙窯の磁器が出土しているという。


長沙窯磁器は詩文や絵画、模様の貼り付けや焼き付けなどを磁器装飾に応用した

 長沙は内陸の奥地にあり、交通が不便だった古代、海上シルクロードの水運に頼ることは対外交流の主要な方法となっていた。近代になると、ますます多くの長沙出身者が国外に出て、世界を見るようになった。

 日本の明治維新が成功したことによって、大勢の中国人が日本へ行き、革新・救国の道を模索するようになった。湖南第一師範の教師や学生の中には、日本留学経験者が多かったという。後に第一師範は校舎を建て替える際、日本の青山学院の建築様式を参考にした。

 清朝の湖広総督・張之洞は1902年、学生30人余りを選抜して日本へ留学させたが、その中に黄興もいた。黄興は日本到着後すぐに、留学生たちの間で勃興していたブルジョア民主主義革命思潮に引き付けられた。彼はさらに中国革命を支持する日本人・杉田定一と深い友情を結んだ。09年、黄興は鹿児島に行き西郷隆盛の足跡を訪ねた。鹿児島にある史料によると、黄興は「中国人の中の西郷」と称されている。南洲神社には黄興の記念碑が建っている。


黄興路歩行者天国は長沙旧市街の中心エリアにあり、通りの入り口には黄興の銅像が建っている

 似たような経歴を持つ人に田漢がいる。田漢は1916年、おじの支援の下、日本に渡り、6年にわたる留学生活を始め、多くの日本の学者や作家と知り合った。その間、彼は谷崎潤一郎と特に親交が深く、日本で2012年に開催された『田漢と谷崎潤一郎──日中両国文学者セミナー』では、この国境を超えた友情について語られた。

 近代の長沙は韓国とも深い関わりがある。韓国人が国父とたたえる韓国独立運動家・金九は長沙に一時期滞在したことがある。大韓民国臨時政府は最初、数人の韓国独立運動家によって上海で創立され、1937~38年には長沙に移っていた。長沙市開福区の楠木庁6号は、当時、彼らの住居と活動の主な根拠地になっていた。金九の自伝『白凡逸志』には、「われわれは長沙に移り、中国中央政府から行き届いた世話と援助を受けた」と書かれている。