紀元前139年、張騫は漢の武帝によって西域(漢代の西域は、新疆の天山以西の中央アジア、インド、西欧州などを指す)に派遣され、その伝奇的な「道を切り開くための旅」に踏み出した。彼の訪問の目的はもともと現地の遊牧集落と連絡して、匈奴を挟み撃ちすることだったが、思いがけずユーラシア大陸に深く入り込む探検となった。前後2回、十数年かけて、張騫と彼の仲間たちは中央アジア、イラン高原、インドなどを訪れた。彼らは西洋の風習や情報を中国に持ち帰り、各国と友好を結びたいという漢朝の希望を各国に伝えた。多くの国の使者が、張騫の2回目の訪問の際に一緒に中国に行き、大漢皇帝に謁見した。

漢朝が中央アジアや欧州と交流する時代は張騫の訪問から始まり、漢の武帝はそれから何度も使節団を派遣し、中国の各種物産を満載して西域各国を訪問させた。史料によると、当時最も多いときで1年に十数回、使節団が派遣され、規模は最大で数百人に上ったという。張騫と前漢外交使節団の行動によって、もとはわずかな活動しかなかったこのユーラシアの陸の道は活気づき、シルクロードはこうしてにぎわうようになった。
紀元前111年、漢の武帝は河西回廊に武威、張掖、酒泉、敦煌の4郡を次々と置き、陽関と玉門関を国境の砦とし、敦煌はこうしてその名を得た。「敦は大なり。煌は盛なり」という漢字の意味から、当時、漢の皇帝がこの地に対してどんな素晴らしい期待を抱いていたかが分かる。敦煌は河西回廊の西端にあり、中国と西洋の交流における「要衝の地」だ。その後、漢朝は敦煌一帯に兵士を駐屯させ、開墾し、生産を発展させ、河西回廊一帯の人々の安寧を保障すると同時に、シルクロードという交通路のスムーズな流れを維持した。当時、大勢の西方の商人がパミール高原を越え、中央アジアを横切り、遠路はるばる続々とやって来て、敦煌は彼らが休息する最初の町になった。
東西の貿易が盛んになるにつれて、敦煌は人口が急速に増え、それによって一躍東西貿易交流における重要な町の一つとなった。頻繁な商業貿易活動のほか、敦煌は各民族・地域の僧侶や巡礼者(4)、商人、文人なども引きつけ、彼らはここで宗教、文化、社会活動に従事した。有名な訳経家・鳩摩羅什、東晋の高僧・法顕、唐代の高僧・玄奘も敦煌に滞在したことがある。東西を往来する人々がここに仏教、マニ教、キリスト教などの宗教・文化をもたらし、また莫高窟や楡林窟、西千仏洞などを代表とする大量の貴重な歴史文化遺跡を残した。
敦煌市と瓜州県の境にある懸泉置は、史料に記載がある80カ所余りのシルクロードの宿場町のうちで、現在でも遺跡の保存が最も完全で、出土文化財が最も多い場所の一つだ。ここではかつて3万5000枚余りの漢簡(漢代の竹簡・木簡)と大量の生活器具・用品が出土した。考証によると、懸泉置は前漢初期に設置され、前後400年近く続いたという。
「黄河 遠く上る 白雲の間、一片の孤城万仭の山。羌笛 何ぞ須いん 楊柳を怨むを、春光度らず 玉門関」。唐代の詩人・王之渙の『涼州詞』は知らない者がいないほど有名だ。詩の中の玉門関は敦煌市の北西に位置する。前漢のとき、西の匈奴の侵入に抵抗するため、漢の武帝はここに長城を築き、関所を設置した。玉門関は漢の長城の最西端に位置していた。「春光度らず 玉門関」の一句は、ここが前漢の辺境の果てであることを記し、「怨」の字は辺境の関所を守る兵士たちの強い望郷の念(5)を描き出している。
同じく敦煌にある、もう一つの関所は陽関だ。中国語には「陽関大道」という言い方があり、明るい未来を意味する。陽関を出ればシルクロードに踏み出すこととなる。ここは西域につながる重要な関所でもあった。