敦煌石窟

「莫高」窟と名付けられた理由については、さまざまな説がある。 

 ある説では、「石窟を造るより良い修行はない」という意味でつけられたと言われている。また、ある説では、唐・宋時代、「莫高」は地名として現れたという。共に莫高窟の蔵経洞で発見された資料に記載がある。 

 莫高窟の建造には伝奇的な物語がある。366年、楽僔という僧侶が敦煌の鳴沙山と三危山の境までやって来た。彼は修行の場所を見つけて、仏法を研さんしようとしていた。日暮れ時、楽僔和尚がふと顔を上げると、鳴沙山の崖に金色の光が見え、たくさんの仏像がその中に現れた。彼はその場所こそが仏教の聖地だと考え、そこで石窟を掘り仏像を造ることにした。これが有名な莫高窟の最初の石窟である。





  楽僔和尚の後、いくつもの時代を経て、人々は敦煌で石窟を掘り続けた。僧侶が造ったものもあれば、信者たちが功徳を積むために造ったものもあった。現在、敦煌の莫高窟、西千仏洞、楡林窟の石窟は総称して敦煌石窟と呼ばれている。敦煌に現存する石窟は800カ所余りあり、内訳は莫高窟735カ所、西千仏洞22カ所、楡林窟42カ所などとなっている。そのうち規模が最大の莫高窟は南北2区に分かれており、南区の492カ所の石窟は主に仏を祭る場所で、彩色を施した仏像2000体余り、壁画4万5000平方㍍余りが現存している。北区の243カ所の石窟は主に僧侶の修行・居住の場所で、土で築いたオンドル、煙道、仏壇、燭台などの生活用品を見ることができる。

 

 

 敦煌石窟群は建築、塑像、壁画が一体となった総合的な芸術の宝庫だ。石窟の建築は機能の違いによってさまざまな様式が採用されている。初期の石窟はインド石窟の建築様式を踏襲し、チャイティヤ(祠堂)窟、ビハーラ(僧院)窟、中心柱窟はインドや西域の様式を持つ石窟建築で、一方、後の殿堂窟や大像窟は中国伝統建築の影響を受けたものだ。また、十六国・北朝時代、莫高窟にはガンダーラ様式やマトゥラー様式の彩色の仏像が出現したが、一部の西魏の石窟にある仏像は、中原の「曹衣出水」(着衣が体に密着し、あたかも水中から出てきたように見える)の様式で作られていた。