日本人の敦煌への思い

 敦煌と日本には言い尽くせない物語(6)がある。作家の井上靖氏は敦煌に行ったことはなかったが、敦煌学者の藤枝晃氏から啓発を受け、1959年に歴史小説『敦煌』を執筆した。同作は次のようなストーリーだ。北宋時代、科挙に落第した趙行徳という書生が、汴京の街頭で西夏の踊り子に出会い、彼女を危険から救う。踊り子から礼として西夏への通行証をもらったことにより、趙行徳は西夏に行きたいと思うようになる。西夏に行く途中、彼は不運にも軍隊の捕虜となってしまう。その後、残酷な戦争や恋愛の失敗を経験して、人生の打撃を受けた趙行徳は仏教に興味を持ち、戦乱の中で経典を千仏洞に隠す――。

 

 

 同作は後に同名の映画に改編され、佐藤純彌が監督し、西田敏行などが主演を務め、中日映画界の美談となった。また、特筆すべきは、当時この映画を撮影するために、日本の出資者が敦煌で投資し、昔の沙洲古城を復元した映画のセットを造ったことだ。現在、このセットは残されて、敦煌の観光名所の一つになっており、観光客はここで西部の砂漠にある古城の姿を見ることができる。

 

 

 

 小説と映画の『敦煌』だけではない。有名な画家・芸術家で、日中友好協会会長を務めた平山郁夫氏はかつて、自分の人生の支えは玄奘三蔵だが、意外にも、敦煌には私のためにとてつもない人生の画廊が用意されていた、と語ったことがある。79年に平山氏が敦煌訪問の申請を出したところ、突然の洪水で受け入れ予定の宿泊施設が流されたため、受け入れ側の機関はやむを得ず訪問の申請を断った。しかし、彼はたとえ敦煌文物研究所の倉庫に泊まっても構わないから必ず行くと言った。敦煌訪問期間中、彼は100点余りの写生作品を描いた。 

 帰国後、平山氏の後押しで、「敦煌石窟保護研究陳列センター」と「中国敦煌石窟保護研究基金会」が設立された。東京藝術大学学長を務めた間、彼は敦煌芸術を美術学部の必修科目とし、当時の敦煌文物研究所所長の常書鴻氏と協力して、講師・学生を率いて何度も敦煌を訪問した。これだけでなく、平山氏はさらに大英博物館に寄付して、敦煌の文化財を修復するための施設を設立し、さらに米国、フランスおよび他の比較的大きな国立博物館が専門の敦煌文化財修復室プロジェクトを立ち上げるのを推進した。

 華僑作家の陳舜臣氏は1970年代に敦煌を遊歴した後、大量の歴史的資料を組み合わせ、想像と推理でそれを補い、本場そのままの敦煌の風情を読者に伝えた。当時、多くの日本の青年がその著作を読んで、敦煌への憧れを抱き、敦煌を訪れ、日本で空前の「敦煌ブーム」が巻き起こった。

 もちろん、敦煌の歴史、芸術、文化による日本への影響はこれだけにとどまらない。敦煌学自体の研究のほか、敦煌壁画の模写、さらには敦煌で発見された大量の経典の写本も、全て日本で保存されている仏教経典の源であると考証されている。多くの日本人が気持ちの上で、敦煌を自分の「文化のふるさと」と見なしている。竹下登元首相はかつてこのように述べた。「いまなお私共日本人が、シルクロード、敦煌、そして長安という言葉を聞くにつけ心の高まりを覚えますのは、かかる来歴を持つ文化が日本人の心の中に今も脈々と生き続けているからでありましょう」。