偉大な先人の足跡をたどる

   訪中団一行は北京をたった後、周恩来の第2の故郷、天津を訪ねた。1917年の夏、若き周恩来はこの地から日本に向かい、国を救う道を歩み始めたのだった。青年たちは周恩来とその妻鄧穎超を記念する周鄧記念館を見学し、周恩来の生い立ちと日本との深いゆかりについて学んだ。特に、周恩来の日本留学当時の様子を紹介する部分に青年たちは一番興味を示した。

   周恩来の日本での留学は奮闘の日々だった。毎日、読書に明け暮れる中、たった一つだけ怠らないことがあった。それは日本社会に対する観察だ。しばらくして帰国を決めた周恩来は、帰り際に京都に寄り、『雨中の嵐山』という有名な詩を残した。この詩には、国を救おうとする周恩来の大きな抱負がつづられている。こうした抱負は、日本滞在中における日本人との付き合いや、マルクス主義者たちとの出会いに由来するものだ。日本での生活によって彼は迷いから救い出され、中国の歩むべき道を見いだした。人々に広く知られている嵐山の記念碑はこうした背景の下に建てられたものだ。今や、この記念碑は中日友好の証しとして、静かにその歴史を物語っている。

   新保清美さん(21)は、「周恩来総理がそれだけ中国を愛し、強く平和を求める人格者であったのだと感動し、妻でもありよき同志でもある鄧穎超との人生や2人の民衆目線で闘われてきた姿に感銘を受けた」と語った。また、中島大地さん(24)は「中国と向き合うときには歴史をしっかりと理解してそれを踏まえる必要があるとよく聞くが、これからさらにしっかりと中国の歴史も理解したいと思う」と話した。周恩来の20世紀における日本との出会いが訪中団の共感を呼んだ。青年たちは、中国の革命に尽くした先人の偉大さと中日両国における深い歴史の絆をあらためて感じ取ることができたのだ。

  先人の足跡をたどって次に訪れたのは上海。四川北路と山陰路の交差点に、一見、何の変哲もない2階建ての建物がある。壁には「内山書店旧跡」と書かれたプレートが掛かっており、日本の青年たちはそれをしばらく見つめていた。この場所は、魯迅と彼の日本の友人内山完造の10年にわたった友情を物語る場所だ。内山完造は書店経営を始める前に薬の販売をしていたことがある。そのため、魯迅はかつてこの親しい友人に贈った詩の中で、「有病不求薬,無聊才読書(病気になっても薬を使わず、暇なときだけ本を読む)」とユーモアたっぷりに当時の社会状況を描写した。このように、2人の友情は国境を越えて長く語り継がれている。

   中日関係がどんよりとした雲に覆われた時代でも、魯迅は決して中日友好の未来を疑わなかった。中国に対する軍国主義の侵略を強く非難したが、隣国の人々との誠実な友情を粗末にはしなかった。訪中団員はこの話を聞いて、強く心を打たれたようだった。

   中島さんは、「魯迅と内山完造の友情からも分かるように、人として向き合えば人の温かさが伝わり合い、国籍にとらわれない協力が成り立ち、きっと分かり合うことができるはずだ」と感動の言葉を残した。

   天津から上海へと移動し、20世紀における中日関係と深い関わりを持つ2人の偉人の物語を聞いて、日本の青年たちは深く感動した様子だった。そして、「両国の人々の努力があれば、中日関係はきっと明るい未来を迎えることができる」と、両国の相互理解に大きな自信を持てるようになった。

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