三国志の激戦の舞台

 

 合肥の人に週末の外出先を尋ねると、老若男女を問わず、3分の1の人は「逍遥津」と答える。調べてみると、そこは大きな公園で、合肥市民にとても親しまれている場所だった。『庄子』の「逍遥遊篇」から名付けられた逍遥津は古代、天下を争う英雄たちの戦いの場だったが、今では優しいまなざしで合肥の人々を見守っている。さっそくそこへ向かった。

 

上空から見た逍遥津公園(東方IC

 

逍遥津の立派な入口をくぐり抜けると、真正面に1体の銅像が現れた。馬にまたがった三国時代の魏の武将、張遼(169222年)の像。その勇ましい姿と鋭い目つきは、かつてここで起きた戦いを物語っているようだ。逍遥津公園は三国時代の遺跡の上に建てられている。215年、わずか800人余りの軍隊を率いた張遼が、10万人の敵軍に白旗をあげさせた、歴史上有名な「張遼威震逍遥津(張遼の威、逍遥津を震わす)」の舞台となった場所がここなのだ。

古代、逍遥津は大きな港で、広い水域を有していた。当時、孫権は10万余りの軍隊を引き連れて、曹操が漢中に遠征した隙を見て、逍遥津を襲撃しようとした。その時、逍遥津に残っていた張遼の下には7000人余りの兵士しかおらず、とても敵対できる状態ではなかった。そんな中、孫権の攻撃を予測して下されていた曹操の命令に従い、張遼は800人の突撃隊を引き連れ、機先を制して到着したばかりの呉軍に奇襲攻撃をかけた。そして水辺という地の利を使って、孫権たちが攻めてきた時に渡った橋を壊して、逃げ道がなくなるまで追い込んだ。不意打ちをくらい、逃げ道を断たれ、統率が乱れた孫権軍は、こうして張遼の作戦に白旗をあげることとなったのだ。この歴史に残る有名な戦いは、今でも中日の三国志ファンを魅了してやまない。

 

戦馬にまたがる張遼像。逍遥津の入口に立ち、公園全体を守護しているかのようだ