伝説と歴史が交錯する湖

 

 巣湖は合肥市の東南側にある。大海原と見まがうばかりの湖面は遠く地平線まで広がり、時折、漁を終えた小船が遠くから帰って来るのが見える。冬は霧が立つため、春や夏の観光シーズンほど視界が良くないが、逆に秘境にいるかのような感覚を味わえる。

 巣湖の名は、中国神話で人々に家の建て方を最初に教えた「有巣氏」と関係があると伝えられている。先史時代(約200万年前から紀元前21世紀まで)、人々は洞窟で暮らしていた。血縁で結ばれた氏族社会が形成された後、巣湖一帯で暮らす集落の頭だった有巣氏は、枝や葉を使って木の上に簡易な住居を作る方法を考え出した。そうして、人々は「穴居時代」から「巣居時代」に入り、それから発展した「干闌式建築」(竹や木の幹で造られた2階建ての家屋。2階は人の住居で、1階は家畜を飼う場所や物置きとなっている)は、中国の家屋建築の原型といえる。

 

巣湖の北岸から湖側に突き出た巨大な岩の先端にたたずむ中廟寺。遠くに見えるのが湖心に浮かぶ姥山島(写真提供・安徽省合肥市党委員会対外宣伝弁公室)

 

安徽省巣湖市壩鎮の巣父園にある「有巣氏」の彫像。有巣氏は地元の人々にとって、なじみ深い文化的シンボルだ。(写真提供・安徽省巣湖市党委員会対外宣伝弁公室)

 

 巣湖は独立した湖ではなく、その東端からは、アジア最長の川・長江につながる「裕渓河」が流れている。今ではあまり知られていない川だが、三国時代には、呉と魏の二国が奪い合う軍事上の要衝だった。赤壁の戦い(208年)の後、曹操軍は黄河流域まで撤退し、孫権軍は長江の中・下流域に拠った。裕渓河はちょうど両国の境に位置し、川を渡って攻めるのに最適の場所だったため、40年にわたり前後5回も「濡須口の戦い」が起こった。それだけでなく、逍遙津公園(曹操配下の将軍・張遼が800人の軍隊を率いて10万人の呉軍を打ち破った場所)や教弩台(曹操が射手を訓練した場所)、三国新城遺跡(曹操が孫権軍の攻撃を防ぐために建てた城)など、三国時代の有名な歴史にまつわる名所旧跡も合肥市内にある。