小さな町から全国トップクラスの省都へ

 合肥は長江と淮河の間に位置する。水に恵まれて誕生し、地名は川の名前に由来し、中国の5大淡水湖の一つである巣湖を抱える省都だ。

 合肥の歴史は、紀元前3世紀に秦が合肥県を置いたときにまでさかのぼり、すでに2000年余りの歴史を誇る。しかし、省都として定められたのは1952年になってからのため、中国で最も若い省都の一つである。当時の合肥市は面積5平方余り、人口は5万人に満たなかったが、78年に市域面積は10倍に拡大し、人口は70万人にふくれあがった。

 合肥は農村改革が最初に展開されたところの一つだったが、改革開放初期において、合肥の発展速度と成果は全国的に目立ったものではなかった。非資源都市で、地理的には同省の中間部に位置しているものの、交通は想像できないほど遅れていた。当時笑うに笑えなかったのは、安徽省の人々は買い物をするにも出稼ぎに行くにも、みな江蘇省南京市などの都市へ行く傾向にあり、現地の人々は自嘲して、合肥は存在感が無いと言ったものだった。

 1978年4月、合肥市で安徽省_北京間の列車が開通したおかげで、北京行き列車が無いという歴史は幕を閉じた。しかし、2007年まで長らく、合肥市民が遠出をする場合は、同省の蚌埠市まで行って汽車に乗らなければならなかった。京滬(北京_上海)線上に位置する蚌埠市こそ、鉄道交通の最も便利な場所であった。08年という年は、合肥市民の記憶に鮮明に刻まれている。この年、合寧(合肥_南京)都市間鉄道が開通したことによって、合肥市民は高速鉄道の便利さを身をもって体感することができた。これを発端として、合肥は高速鉄道時代の発展のチャンスを迎え、毎年高速鉄道の新しい路線を開通させている。10年間の努力によって、合肥は米字型の放射線状に高速鉄道ネットワークを形成し、全国19のターミナル駅の1拠点となり、14省都間の直通を実現した。今年4月10日、高速鉄道復興号G24便が合肥南駅から北へ向かって走り出した。これにより、以前は合肥と北京間の移動は20時間もかかっていたが、4時間もかからずに着けるようになった。

 合肥は上海市や江蘇省、浙江省に近接しているが、かつてこれらの都市へ行くのは簡単なことではなかった。しかし今では、高速鉄道で南京まで50分ほどで行けるようになり、毎日70本以上の高速鉄道が南京や上海、杭州などとの間を行き来している。これにより、合肥と先進的な長江デルタ経済圏都市は緊密に結び付けられるようになった。合肥市民はそれらの地域に行って買い物をしたり、仕事をしたり、簡単に日帰りで往復できるようになった。

 

中国東部の四大高速鉄道ターミナル駅の一つ合肥南駅

一方、合肥市の町づくりは急速に進んだ。特に06年から、市街地面積はすさまじい速さで拡大し、都市の様子は瞬く間に大きな変化を遂げ、環状線高速道路や合肥南駅、新橋国際空港、合肥港国際コンテナターミナル、地下鉄12号線は急速に整備されている。17年末になると、市街地面積は11倍に拡大し、常住人口は400万人余りに増え、合肥市が管轄する5県市を加えると、常住人口が800万人近くにのぼった。近年、安徽省外に出て行った人たちが再びUターンで地元に戻り続けており、省外の人々の中にも同省に来てビジネスチャンスを探す人が少なくない。合肥は人口流入都市になり、その活気と魅力の表れともいえるだろう。

 立体的な交通システムの急速な構築によって、地理的優位性が経済成長の優位性に転じ、これも合肥の経済が飛躍的な発展を実現した重要な要因だった。06年以前、中国26の省都の中で合肥の経済規模は18位以下をさまよっていた。06年はわずか1000億元だったが、昨年は7200億元余りに達し、7倍に増加した。ランキングでは、9省都を追い抜き、上位10省都入りを果たした。

 改革開放の最初の30年間、合肥市は全く無名の地だった。この10年間の爆発的な発展は、合肥が常に初心を忘れず、努力を着々と積み重ねてようやく実現したものだった。当初の三、四線都市から現在の新一線都市に至るまで、合肥市と南京市、杭州市は共に長江デルタ経済圏の副中心になり、画期的な変化を遂げた。

 

天鵞湖のほとりにある合肥政務文化新区

 
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