チベット族が観光に活路 青海「幸福」村で貧困脱却

袁舒=文・写真

チベット式の木造家屋、陽光が降り注ぐ砂州、青い波、水面に映る影……。青蔵高原と黄土高原に挟まれた地域にこのような美しい村落があるとは思いも寄らない。

ここは青海省東部、黄南チベット族自治州尖扎県昂拉郷のデキ村だ。県政府所在地から車に乗り、黄河に沿って南に約15分走ってたどり着く。デキはチベット語で「幸福」を意味する。青海省の平均標高は3000㍍以上だ。大自然の力は複雑な地形と独特の景観をつくり出し、ここを荒れ果てて痩せた土地にした。住民はかつて山で農耕と放牧をし、原始的で立ち遅れた生活を送っていた。彼らは中国語を理解しなかったために外部と意思疎通できず、交通が不便だったために山あいから抜け出せず、就職しようのない貧困世帯になっていた。

2017年11月、的確な貧困救済事業の下、七つの郷・鎮、30の村の251貧困世帯946人が集中的にデキ村に引っ越してきた。もともとの生活環境は劣悪で、インフラは未整備で、地元で貧困脱却するすべはなかった。引っ越し前、1人当たりの平均年収はわずか3700元ほどだったが、今ではすでに9800元に達している。

 

デキ村の出入り口からの眺め。美しい田園の詩歌のような農地、川の流れ、高山が見渡せる

 

貧困世帯が「農家民宿」推進

デキ村のシャウ・ジェンツァンさん(51)は引っ越してきた貧困世帯の一人だ。現在、彼と妻の2人は長方形の中庭を持つ木造のチベット式民家に住んでいる。これは住民の集中移転の際に国の資金で建設された住宅だ。各戸の構造は同じで、整然と並んでいる。彼らは家の内装工事を終えたばかりだ。もともとの家屋に寝室2部屋と屋上のサンルームを増築し、数組のテーブルといすを置き、「農家楽(宿泊や飲食などを通じた農村観光)」の施設として営業を準備している。

 

チベット族の家にはストーブがあり、オンドルにつながっている。ストーブは調理だけでなく、寝床を温めるのにも使われる

尖扎県は引っ越しを通じた貧困救済の過程で、自然に囲まれたデキ村の心地よい風景と郷村観光発展の巨大な潜在力という優位性に狙いを合わせ、文化観光業の確立を後々の産業発展の中心とした。農家楽の推進は村民が近場で就業する第一の選択肢となり、デキ村では昨年だけで12施設がオープンし、昨年末までに42施設ができた。シャウさんの家もその一つだ。

シャウさんは簡単な中国語で交流できるだけで、妻は中国語を聞き取ることも話すこともできない。山から下りてきた後、彼は主にタンカ(仏画)の制作や協同組合への参加、低所得者向けの政府が提供した仕事、年末の村の分配金で生計を立てている。

シャウさん夫婦にとって農家楽は大きな挑戦だった。多くの村民は生涯の大部分を山の上で過ごしてきたため、山から下りてきて初めて野菜を食べた人もいた。シャウさんらもそうだった。シャウさんの妻は以前、ツァンパ(いった大麦の粉末)をこねたり、バター茶を作ったり、牛や羊の肉を煮たりすることしかできなかった。外部から来た客を自宅でもてなす場合、県政府所在地で働く妹をわざわざ呼んで料理してもらっていた。彼女は自分の作った料理が商品になるなどと考えたことはなく、どうしても緊張した。村民委員会はこうした問題を解決するため、県からコックを招いて料理を指導してもらった。

シャウさんはまた、農家楽の経営歴の長い隣家をよく訪ねて経験を学んでいる。この日、村内最初の挑戦者であるダワさんを訪ねた。

 

温かな接客でリピーター獲得

ダワさんはシャウさんを見ると手を休め、部屋の中へ呼び入れた。

ダワさんの家は立地に恵まれている。正面は村の幹線道路で、そばにバス停があり、入り口に立つと透き通った黄河や美しい砂州、連綿と続く高山が見える。中に入ると右手に売店があり、規模は小さいが品ぞろえは豊富だ。屋内は温かく快適で、床板は輝いている。

周辺の県の間では、デキ村はすでにインターネットで人気の観光スポットとして有名になり始めている。夏になると、海南省三亜のような「リトル三亜」の情緒を満喫しようと観光客がやって来る。マイカーが村の入り口から2、3㌔連なり、軽食店の並ぶ通りは人々でにぎわい、農家楽施設は宿泊者で満員になる。

ダワさん一家はデキ村に引っ越してくる前、川向いの山に住んでいた。一家は農業と出稼ぎで暮らし、年収は4000〜5000元しかなかった。今では観光経済に依拠し、年収は4万〜5万元ほどに達する。

ダワさんの農家楽施設の宿泊料金は1人当たり1泊90元で、県政府所在地のホテルとほぼ同額だ。しかし、家庭的な温かみがあるため、多くの観光客はやはり村内で宿泊することを選ぶ。チベット文化の各種情報を発信するアプリ「高原白馬」でダワさんの農家楽施設が紹介されると、多くの予約が入った。ダワさんの最初の客は18年7月に青海省の省都・西寧から車を運転してきた10人のグループだ。それ以降、彼らは毎年遊びに来て、ダワさんの家の名物料理であるチベット風ギョーザを味わうようになった。

ダワさんの家には、村民の暮らしを理解しに来たラモ・ドルマ村党支部書記(43)がいた。彼女は空き時間にいつも村内を歩き回り、村民の家を訪ねて雑談し、皆の暮らしと仕事の状況を調べている。村での仕事はもう4年になる。

 

「ダワ農家院」のメニュー。看板料理のチベット風ギョーザは1皿20元。タマネギとキクラゲのサラダは現地では珍しい食材を使っているため、やや高めになっている

 

村民見守る党支部書記

ラモ書記は住民の引っ越しを計画、実施した時点から村に在任している。山で暮らしていた人々は住み慣れた土地を離れようとせず、たとえ日々の生活が苦しくてもほかの土地に移ろうとはしなかった。ラモ書記は繰り返し山の上に行って彼らと話し、彼らの心のわだかまりを解こうとした。「彼らの気持ちは非常によく分かりますが、山の上の生活はとても大変です。子どもは学校に行けず、お年寄りは病気になっても診察を受けられず、水も数㌔担がなければならず、本当に見てはいられませんでした」

彼女の説得により、人々は山から下りることを選んだ。しかし、これは始まりにすぎなかった。七つの郷・鎮から引っ越してきた村民は互いに顔見知りではなかったのに、突然隣人になった。水道管の凍結と破裂で隣家を水浸しにしたり、ほかの住民の家の前にごみを捨てたり、隣近所でさまざまなトラブルがよく起こった。こうした取るに足らない摩擦もラモ書記が自ら解決しなければならなかったため、彼女は17、18年に1日も休まなかった。村民を団結させるため、いつも皆を一緒に座らせて雑談させ、正月や祝祭日に小規模なイベントを実施した。例えば、3月8日の国際婦人デーに自費で大きなケーキを買い、村内の女性に自分たちに関する記念日であることを伝えた。

 

村民は村の中心の広場に集まり、幹部の提案を聞き、大小さまざまな問題を協議する。ここでは全ての業務が村民の表決で決められる

村民らは山から下りてきたばかりの頃、不潔な身なりをしていた。ラモ書記は彼らを連れて服を選ばせ、「おしゃれ」を教えた。また、村内の木製の柵が車にぶつけられて傾いたとき、ある村民は自宅に持ち帰って薪にしてしまった。そこでラモ書記はこの村民に木材を弁償させ、公共の意識を啓発した。村民の確かな変化があれば大いに報われるため、ラモ書記はこうした苦労をずっと楽しんでいた。ただ残念だったのは、現在小学4年生の娘がこの3年間、ラモ書記が帰宅した頃にもう就寝していたことがしばしばあったことだ。娘は母親の作った料理をあまり食べられず、校門そばの麺料理の店が彼女の「子ども時代の味」になった。頻繁に食べたため、今では麺類を見ると眉間にしわを寄せるようになった。

午前11時すぎ、ダワさんの家を出たシャウさんは、子どもらが庭で駆け回っているのを見掛けた。幼稚園の昼休みの時間になっていた。幼稚園の入り口では、背の高い痩せた色黒の若者が園児らの真ん中に立ち、一人一人の園児を保護者に引き渡していた。彼はチュヤン・ドルジェ園長(22)だ。

 

幼稚園でバイリンガル教育

園児を引き渡した後、チュヤン園長は園舎に戻り、短い昼休みと仕事のまとめに入った。デキ村の幼稚園には、近くの六つの村から来る園児99人と教員7人がいる。園舎は清潔で整っており、園児のおもちゃは整然と1カ所にまとめられている。床暖房があり、教室内は暖かい。

1998年生まれのチュヤン園長はここで働いてもう2年になる。もともと早めに就学していた彼は20歳で青海民族大学美術専攻を卒業した後、幼稚園教員の試験に合格した。チュヤン園長は教室の机といすを片付けながら、「私は絵を描くのが好きですが、子どもはもっと好きです。毎日子どもたちと一緒にいるととても楽しいですし、彼らに美術を教えることもできます」と話した。まだあどけなさを残すチュヤン園長は子どものような純真な笑みを浮かべた。

 

園児の手を取ってクレヨン画の描き方を教えるチュヤン園長

午後2時、園児が教室に戻ってきた。年少クラスの1時間目の授業は中国語だ。幼稚園はチベット語と中国語のバイリンガル教育を行っており、中国語の授業が毎日1時間ある。チュヤン園長は「ますます多くの保護者が中国語学習の重要性を認識するようになり、しっかり教えてくださいと私たちに念を押します」と話した。入園前の子どもの多くはお年寄りが面倒を見ているが、彼らは中国語を話せないため、子どもも入園まで中国語を話せなかった。子どもに言語環境が欠けているなら、教員らが懸命に整備する。こうした教育方針の効果は著しかった。バイリンガル教育を受けた最初の園児たちはすでに大きくなり、今では村内の子ども全員が中国語とチベット語を理解できる。家族にとって彼らは家庭内の通訳で、両親・祖父母と外の世界の懸け橋になっている。

デキ村には幼稚園が一つあるのみで、子どもは隣の村か県・郷政府所在地の小学校に進学する。シャウさんの長女は郷政府所在地のコミュニティーで働いており、郷政府所在地の小学校に通う7歳の末の娘と共に暮らしている。毎週金曜日は姉妹が帰ってくる日だ。シャウさんは手にしていたタンカの顔料を早々と置き、車で娘を迎えに行った。

 

太陽光発電と無線LANが普及

午後6時すぎ、シャウさんの家の入り口から幼い大声が聞こえてきた。「お母さん!」。末の娘のヤンチェン・ドルカルちゃんが跳びはねながら庭に入ってきた。シャウさんの長女も後ろからついてきた。郷政府所在地だけで買えるブドウやドラゴンフルーツ、ペピーノといった果物を手に提げていた。

この時、母親は屋上でソーラーパネルのほこりを払っていた。このソーラーパネルは華能グループがペアリング貧困救済プロジェクトとしてデキ村の各住宅の屋上に設置したもので、発生した電気は送配電企業・国家電網に取り込まれ、分配金が村民に毎月支払われる。標高の高い地域でのソーラーパネル設置は、効果的で持続可能な蓄財手段だ。各世帯は毎年5000元の安定した収入を得られる。

ドルカルちゃんが部屋に入ると、ストーブの上のやかんでバター茶が沸騰していた。彼女は無造作に大麦の蒸しパンをもぎ取って口に押し込んだ。長女は台所にあった野菜炒めとシイタケ炒めを運んできた。母親が姉妹のために多めに作っていた料理だ。チベット族の家庭では、野菜は普段あまり見掛けないごちそうだ。

 

簡易なタンカのアトリエ

空は次第に暗くなり、夕食の時間になった。家には新しいテーブルといすがあったが、シャウさん一家はやはりストーブを囲んで座り、雑談しながら食事を取るのが好きだった。ストーブの上で焼いているジャガイモが次第においしそうな匂いを漂わせてきた。

食後、シャウさんの妻はスマートフォンを取り出し、ウイーチャットのビデオ通話で一家団らんの楽しいひとときを親友と共有した。村民はビデオ通話でおしゃべりをするのが好きだ。村内には快適に通信できる無線LANがあり、カバー率は100%に達している。漢字で入力できないチベット族にとって、顔を見て会話できるビデオ通話はずっと便利だ。長女は台所で果物を切り、まきを数本割ってストーブにくべた。現地では珍しいことに、28歳の長女はまだ結婚していない。「適齢期になったら結婚しなければいけない」という考え方に基づき、20歳を過ぎた女性は良い相手を見つけて結婚し、夫を助けて子どもを教育すべきだとされる。「両親は結婚をせかすでしょうが、自分のことは自分で決めたいと思っています。恋愛結婚したいですね」と長女は苦笑した。

夜が深まり、4、5人が眠れるオンドルの上に皆が横たわった。ドルカルちゃんは乳児のように母親の懐に潜り込み、夢の中へ入っていった。 

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