湘軍名将の末えいたち

 少し歴史の話をしよう。清朝末期、湖南の軍隊は、清朝打倒などを掲げる農民運動の「太平天国の乱」(1851~64年)鎮圧に大きな役割を果たした。その軍隊は、湖南の別称が「湘」であることから「湘軍」と呼ばれた。また、この婁底地区からは、名将と呼ばれる将軍を多く輩出し、またそうした将軍たちを支える土地の富豪も多く暮らしていた。

 現在、こうした名将や富豪たちの豪邸の多くはそのまま子孫らが使い、一部は文化財などの形で保存が進んでいる。そうした旧居の一つで湘軍の名将劉騰鴻が住んでいたという新龍潭村の「古松堂」を訪ねた。

 当時は、兵隊たちの兵舎や練兵場としても使われたと言い、土塀の幅が50以上続き、奥行き30はあろうかという豪邸だ。ただ、今は住む家族も少なく、邸内の多くが使われていないという。

 正面の門から入って奥に進むと、日が差す母屋の入り口で、一人の老人が低い机をはさんで二人の子どもの勉強をみていた。子どもたちは鉛筆を握りしめ、ノートに一生懸命に何か書いている。勉強が一段落した頃合いに老人に声を掛けた。

 「字の練習をさせていたんだよ」。81歳という劉全美さんがにこやかに答えた。さらに「(湘軍の名将劉騰鴻から数えて)わしは5代目だ」と言う劉さん。勉強していた二人の子どもは7代目となる双子の孫で、小学校2年生で兄の承恩君(8)と弟の承徳君(同)だった。

 家の中を見学させてもらう。当時は2階建てで、いくつもの部屋に兵隊たちが起居していたという。明かり取りと雨水の排水のために作られた中庭の池に、折からの雨が静かに降り注ぐ。目を閉じて往時の兵舎を想像する。今日のような雨の日、激戦の兵士たちもここでつかの間の休息を取っていたのだろうか。

 今は暗くガランとしたこの広い屋敷だが、激動の歴史の中でこれを守り抜くのはどんなに大変だったことだろう。しかし劉さんは守り抜いた。そして今、将来へのバトンを託す「走者」も育ちつつある。

 雨音に混じり、別の部屋からゴソゴソと物音がするのに気付く。のぞいてみると、双子の兄弟が楽しそうにスマホのゲームに興じていた。屈託のない笑顔にこちらも頬が緩んだ。

 「いつまでも元気でお幸せに」。拙い中国語であいさつすると、劉さんは満面の笑みを浮かべ、差し出した私の手を温かく包み込むように握り返してくれた。