
吉林大学で講義をする黄氏(新華社)
2009年12月24日、長春は大雪の中、海外を18年間さすらう地球物理学者の黄大年氏を迎えた。祖国へ帰還した黄氏は8年間をかけて中国の地球深部探査(6)技術を世界一流レベルに向上させただけでなく、専門的な科学研究チームを育成し、さらに自分の命を愛する事業にささげた。
活躍の場を国外から国内へ
1958年に広西壮(チワン)族自治区南寧市で生まれた黄氏は子どものころから地質学校の教師だった両親の影響を受け、地球物理探査の分野に夢中になっていた。「立派な地球物理学者になって、地球を透明にするんだ!」と若い黄氏は人生の夢を決めた。
77年、黄氏は優秀な成績で新中国最初の地質学校である長春地質学院に入学できた。これは彼にとって、まさに地質学の知識の宝庫に入ることを意味していた。黄氏は時間と競走して、できる限り多くの知識を身に付けようと決心した。そのため、彼は昼も夜も「地質宮」という教育棟に引きこもり、せっせと大量の書籍を読んだ。この「地質宮」も黄氏の生涯の事業における重要なスタート地点となった。
92年、成績も優秀で人柄も高く評価されている黄氏は全国から選ばれた30人の国費留学生の一人として、博士後期課程入学のために英国のリーズ大学に赴いた。4年後、トップの成績で同大学の地球物理学博士号を取得した。その後、黄氏はケンブリッジ大学の地球物理企業ARKeX社に入社し、水中隠蔽目標と深海石油ガスに対する高精度探査を研究し、その技術の研究を行う当時世界でごく少数の中国人の一人となった。
13年間にわたる努力を経て、黄氏は同社の上席研究員および研究開発部の主任となり、世界各地から集まった300人余りのトップクラスの研究者で構成されるチームをリードし、飛行機や船舶を利用して地球深部について貫通式の精密探査を行い、石油ガスと鉱物資源を探査した。この時から黄氏は国際地球物理研究分野で頭角を現し始めた。
2009年、黄氏は母校である長春地質学院から帰国して中国の地質探査事業がより速く発展するようにリードしてほしいという招聘の手紙を受けた。黄氏は直ちに決断した。返信には「多くの人、特にハイテク人材は成熟して成果を遂げたあと故郷に戻ってからより価値を発揮できると考えていますが、今はまさに国が私たちを最も必要とする時期であり、私たちは経験や技術、アイデア、夢を持って帰国すべきです」と書いた。
同僚たちは「行かないでください」「私たちはあなたに憧れて集まってきたのです。あなたがここにいれば、私たちはより多くの成果を出せます」と必死に引き留めようとした。「黄教授が帰国を決めたとき、私たちは非常に悲しみました。みんな、彼の人柄と事業上の成果を非常に評価しており、残ってほしいと思いました」と国際宇宙物理学者のジョナソン・ワトソン氏は振り返る。しかし、黄氏は断固たる決意で英国の恵まれた生活と仕事環境を捨てて、帰国の道に踏み出した。
09年12月末、久しぶりに「地質宮」に入った黄氏は感激して「ただいま!」と叫んだ。ここから黄氏の人生で最も輝かしい時期がスタートしたのだった。
20年の道を5年間で
帰国後、黄氏は中国の「深部探査重要機器設備研究開発および実験プロジェクト」のチーフサイエンティストとして、直ちに全国の400人余りの優れた科学技術者を集め、関連研究に取り組み始めた。彼らは地球深部探査の機器を研究・製作し、地下2000㍍ないしもっと深いところが「透明」になるよう目指した。
1970から90年代、西側の先進国は率先して地球深部探査を行い、地質科学分野の頂点を独占していた。一方、中国の地球深部探査は今世紀初頭から開始したばかりだった。先進国に追い付けるように、黄氏は必死に奮闘した。
仕事のため1年間に半年以上出張し、昼の仕事に影響しないようにいつも最終便に乗った。深夜に長春に着いても直接家に帰って休むのではなく、先に事務室に向かって仕事を処理した。
黄氏の事務室は「地質宮」の507号室にあり、部屋内の9組の本棚には専門書、プロジェクト報告書、学術メモ、発表原稿などがいっぱい詰め込まれていた。昼は教えを請う学生で事務室の外に長い列ができ、夜になっても明かりがいつも夜明けまで消えなかった。プロジェクトの進捗を早めたり、課題を解いたり、資料を修正したりする不眠の夜に黄氏はソファーに横になって一休みをし、また元気を出して翌日の仕事に取り組んだ。
仕事の効率を向上させるため、彼は任務を月・週・日ごとに分けた。夜11時に黄氏は管理システムにログインし、全ての段階の進度をチェックした。「研究進度が自分の知らないところで遅滞していることに我慢ならないのです。このままだとずっと中国は追い付けないのではと心配します」と黄氏は語ったことがある。
2016年、黄氏がチーフサイエンティストとして主導した「地球深部探査重要機器設備プロジェクト」は審査を通過した。これは、中国が地球深部を精密探査するハイテク機器の研究分野において、わずか5年間で西側の先進諸国が20年以上かけて達成した目標を実現したことを意味している。これに対し海外の専門定期刊行物は、中国は正式に「地球深部探査時代」に入ったと評価した。
しかし、この事業に多大な貢献を果たした黄氏は長期の過労により17年1月8日に58歳で亡くなった。
17年6月、卒業論文の口頭試問を無事に通過した喬中坤さんは「地質宮」の507号室にやって来て、ソファーに座って黄氏の遺影と共に写真を撮った。写真の中で微笑んでいる黄氏に「この一生、最も誇りに思うのは黄先生の教え子になったことです」とすすり泣きながら言った。喬さんと同じように、黄氏の学生たちは今でも黄氏による学術上の指導と生活上の思いやり、さらに厳しい指摘を思い出すたびに、感謝と懐かしさで胸がいっぱいになる。
「地質宮」の507号室の明かりは消えたものの、より多くの明かりがともった。黄氏はこの世を去ったが、彼のチームは解散していない。彼の同僚と学生たちは彼が目指していた方向に沿って引き続き奮闘している。