日本に渡り広がった禅宗

袁舒=文

呉維春=写真

 明州港は、中国に到着した遣唐使が第一歩を印す地だ。唐の時代、中国と日本の友好往来・文化交流は空前の繁栄期を迎えた。封建制度を確立したばかりの日本は唐の隆盛を慕い、何度も遣唐使を派遣した。そのうちの4回は明州から上陸している。

 804年、遣唐使と共に入唐した日本の僧・最澄(767~822年)は、浙江東部の天台山で天台宗の教義を学び、明州の開元寺で受戒した。最澄は805年に帰国し、京都の比叡山に延暦寺を建立して日本の仏教・天台宗を正式に開宗した。また、中国の浙江から茶の種を持ち帰って比叡山麓に植えたのが、日本最初の茶園となった。

 明朝(1368~1644年)が海禁(鎖国)令を出して以降、中国と外国の貿易は朝貢貿易のみとなり、寧波は朝廷が「朝貢船」を受け入れる唯一の港となった。貿易は大幅に減少したものの、中日間の文化交流は絶えることなく続き、寧波は唐や宋の時代を受け継ぎ、日本の僧侶や文化人の憧れの地だった。寧波に渡った日本の僧侶たちは地元の文化人たちと頻繁に交流し、仏教や禅、詩歌や書画などを互いに研究し、深い友情を育んだ。その中で重要な役割を果たしていたのが天童寺だ。

 天童寺は寧波の中心部から東へ25㌔のところにある。山の麓に建てられ、古びた軒がうっそうと生い茂る木々の間から見え隠れする。かつて多くの日本人僧がここに滞在して仏教を学び、その知識を日本に持ち帰ったことで、日本の禅宗の発展や中日の宗教交流に大きく貢献した。

 日本の僧・道元(1200~53年)は1223年に天童寺に入り、禅僧・如浄に師事し、曹洞宗第14代の正統の法嗣(跡継ぎ)となった。帰国後、1244年に日本の曹洞宗の大本山である永平寺を福井に建立し、天童寺を祖庭(開祖が住んだ寺)としてあがめた。

 

秋の山に映える天童寺と千佛塔(右)。山間部に建立され、うっそうとした木々に囲まれた寺院は、静寂さと禅意がひときわ増すようだ

 寧波市奉化区渓口鎮にある雪竇寺は、南宋時代の「五山十刹」(位の高い禅寺)の一つであり、弥勒仏を祭る寺である。雪竇寺は、曹洞宗の開祖・道元が師事した如浄禅師が住職を務めた寺院でもあり、同じく曹洞宗の祖庭として敬われ、今でも日本の僧侶や学者がよく訪れる。

 

毎年旧暦3月3日に雪竇寺で行われる華龍法会。浙江省内から集まった約1000人の僧侶らが、階段を3歩上がるごとに1回弥勒仏を拝む

 日本で「画聖」と称えられる禅僧・雪舟は、1467年に明を訪れる船で中国に渡り、寧波に上陸。天童寺に滞在し、地元の僧たちに敬われた。中国に滞在中、雪舟は有名な山や川を巡り、写生を重ねるとともに、中国絵画の理論や技法の学習に励んだ。帰国後はその技法を用いた絵画の創作を指導し、日本らしい特色を持つ水墨画の流派を切り開いた。

 有名な『唐山勝景画稿』は、そうした作品の一つである。この絵には豊かで繁栄する都市の様子が描かれている。近くには船の帆が整然と並び、遠くには家々が軒を連ね、城門の下には「寧波府東門也」と書かれている。これこそ明代の寧波の街と人々の生活ぶりを生き生きと描いた絵巻だ。