中日貿易で活躍の明州港

袁舒=文

呉維春=写真

 唐と五代(618~960年)の東南アジアの海上貿易で、「明州商団」は中心的な役割を果たしていた。日本は明州にとって最も主要な貿易国であり、唐代末期の60年間だけでも、中日間の商船の往来は30回以上に上る。また、新羅やアラビアの商人も明州に商売にやって来た。

 安史の乱(755~763年)以降、経済の中心が南下し、陸上のシルクロードが衰退して海上シルクロードが発展した。さらに新羅が海道をふさいだことをきっかけに、朝鮮半島に沿っての入唐が困難になった遣唐使が南の海上ルートを切り開いたことで、明州港は新たな発展の機会を得て急速に台頭した。遣唐使が中止されると、朝貢貿易に代わって民間の海上貿易が急速に発展した。唐末期までに明州港は中国四大名港の一つとなり、唐王朝が東アジアに開放する港の中核となった。

 宋の時代(960~1279年)、明州港は国内外の物資の主要な流通拠点として発展した。朝廷は海上貿易を重視し、一連の政策の策定・実施により、明州の海外貿易は空前の活況を呈し、日本との公式貿易も最盛期を迎えた。

 福岡市にある「鴻臚館」は、古代の日本が中国や朝鮮半島からの外交使節や商人を接待した施設だ。明州の商人団はここから上陸して生活し、大宰府と交易を行っていた。当時の中国は主に貨幣や磁器、香辛料・薬材、書画、絹織物などを日本に輸出し、日本からは金や木材、硫黄などを輸入していた。

 

主に中日間の海上貿易で活躍した「唐船」