「寧波幇」飛躍の古里

袁舒=文

呉維春=写真

 寧波は水の都であり、河川や水路が縦横に走る。世界遺産の中国大運河がここで海上のシルクロードとつながり、陸と海のシルクロードの合流点にもなっている。その独特な地理的位置は港の建設には理想的であり、さらに生まれながらにして貿易文化を備えている。

 春秋戦国時代(紀元前770~同221年)、この地はかつて越の国の一部で、紀元前473年に越王の勾践が呉を征服した後、現在の寧波がある句余の地に句章の町を築いた。句章も軍港で、山を背に川に面していたため、当時すでに多数の軍船を停泊させることができ、ここから港湾都市としての寧波の歴史が始まった。

 寧波は唐の時代に明州と改称され、821年に明州の州庁所在地を三江口に移して中心部を築いたのが寧波という都市の建設の始まりだった。明の洪武14(1381)年には、「海が穏やかになれば波も静か(寧)になる」という意味を込めて、寧波と改称された。今年は、寧波の建設が始まってからちょうど1200年になる。

 寧波では、余姚江(姚江)と奉化江の二つの川が合流して甬江となり、東に向かって海に注ぐ。古都寧波は、この3本の川の合流地点「三江口」から始まった。三江口は寧波で最初の「寧波港」の港湾で、古くから何百もの商船が停泊し繁栄していた。三江口北岸の「老外灘」も、上海のバンドが形成される20年前には、南北に行き交う商人たちが住む場所となっていた。

 1930年代後半になると、寧波は近代都市としての新しい姿を見せる。それに伴い、寧波の近代的な工業と商業が勃興し、企業家も増えていった。「寧無くして市にならず、紹無くして政にならず」という言葉があるように、寧波人は生まれつき商いの才能があると言われている。また当時の商売の規模は、現在の温州よりはるかに大きかったという。彼らは水路を頼りに各地を行き来し、商売範囲を拡大させた。今でも上海人の多くは寧波の商人か、かつての「甬商」(寧波商人)の子孫である。「寧波幇」(寧波グループ)はこうして勢力を伸ばし、名声を高めていった。

  三江口の東岸にある慶安会館は、1850年に商人や船乗りたちの娯楽とビジネスの施設として建てられた。中に入ると、豪華な舞台や精巧な竜の彫刻が施された木柱が往時の繁栄の歴史を物語っており、今でも商人たちのにぎやかな話し声が聞こえてくるようだ。慶安会館は、寧波幇の発祥地で、彼らの大多数が海運業から身を起こしているため、多くが航海や漁業の守り神の媽祖を信仰している。慶安会館は、商人たちの集会所であると同時に、女神の媽祖を祭る神廟でもあった。

 館内に入って、まず目に入るのは立派な大舞台「前舞台」だ。豪華な「朱金木彫」(朱色の漆を塗った上に金箔を施した木彫り細工)や極めて精巧な「鶏籠天井」を見ると、かつてここで繰り広げられたにぎやかな光景が目の前に浮かんでくるようだ。しかし、この舞台は商人のためのものではなく、媽祖に芝居を楽しんでもらうために設けられたものだ。館内をさらに奥へ進み奥の殿に来ると、造りは「前舞台」と同じだが、少し小さい舞台がある。こここそが本当に人々がくつろいで娯楽を楽しむ場だ。

 

豪華な造りで知られる慶安会館の前舞台