ミチャエル・サラテ(ペルー)=文
消毒液の臭いが生活の中にまた現れて、私を1991年の2月に引き戻した。その年、ペルーではコレラが突如大流行し、およそ3000人が亡くなった。私と家族は辛い日々を過ごした。飲用水がなく、頻繁に停電し、テロリズムが横行した。今回、消毒液を私の生活に持ち込んだのは家族ではなく、制服を身にまとった紳士だった。毎朝6時、彼は消毒液で私が住んでいる建物を念入りに消毒する。1月25日から、ずっと彼はそのように少しも手を抜くことなく働いている。
居住区の入り口では、趙さんという警備員がいつも寒さに耐えながら、皆の体温を測っている。赤外線体温計の画面に36度と表示されると、彼は毎回ほほ笑みながら「大丈夫だ」と言ってくれる。
この間、私は多くのメディアの取材を受けた。一部の質問は突拍子のないもののようでありながら、筋が通っているようでもあった。「怖いと感じますか?」「道端で亡くなっている人を見掛けましたか?」「彼らは本当にコウモリのスープを飲んでいるのですか?」――私は、この間の本当の状況を彼らに説明する義務があると自覚した。「焦りはあります。でも恐れはありません」「道端で亡くなっている人はいません」「共に感染拡大に対応するため、地域コミュニティーがうまく皆をまとめています」。それから、中国人全員がコウモリのスープを飲むと信じることは、ペルー人全員がネコの肉を食べると信じることくらいでたらめでバカバカしいことだ、と。
感染状況の発生以来、私はずっと北京という町を見つめ直しているが、私の目に映る北京の姿は変わったようだ。医師や看護師ではないことを残念に思う。私たちは第一線で奮闘する白衣の天使のように、新型コロナウイルスと直接闘うことはできない。宅配スタッフではないことを残念に思う。彼らは昼夜問わず働き、皆がいつも通りネットでさまざまな商品を買えるように保障している。清掃スタッフではないことを残念に思う。彼らは依然として黙々と働き、道や広場を非の打ち所なく清潔に保っている。公共バスの運転手や地下鉄の乗務員ではないことを残念に思う。彼らは公共交通機関を使う人が少なくても、持ち場を守り続けている。一方、私に唯一できることといえば、文章を書き、多くのメディアが触れない、黙々と貢献している無名の英雄たちの物語を記すことだけだ。新型肺炎は私たちの日常を変えたが、私たちと中国の関係を変えることはなかった。
私は今、時間をさかのぼる形で北京での日々を語りたいと考えている。私の想像する出だしは、新型コロナウイルスに打ち勝ったことを皆で一緒に祝うシーンだ。ラッシュ時の混雑する地下鉄、至る所にレストランやバー、カルチャーセンターがある都市を想像する。中高年の女性たちが再び公園で楽しそうにダンスを踊る姿を想像する。そして、物語の結末は1991年のリマだ。その年、母は私たちに消毒液の使い方を教えてくれ、父は次のようなアドバイスをくれた。「気をつけなさい。でも怖がらないで」

スーパーの入り口で消毒をする筆者(写真提供・筆者)
人民中国インターネット版 2020年4月16日