喧嘩しても嫌いになれない
 

  私は中国が嫌いだった、中国に5年住んでいても。むしろ中国に住んでいたからかもしれない。私は父の仕事の関係で小2から小6まで中国に住んでいたが、住めば都とはならなかった。その理由は大きく2つある。

 1つは中国人の雑さだ。住み始めて1番衝撃的だったのは、老若男女なりふり構わず痰を道に吐き捨てることだった。お金の扱いも接客もルールに対しても全て雑だ。そのような場面に遭遇する度に日本に帰りたくなった。帰国後、日本に来る中国人観光客が激増した。新宿のヨドバシカメラ近くの塾に通っていた時、ここは中国かと錯覚するほど中国人がいた。大きい声で喋り、狭い通路に3、4列で歩く姿を見て、ここでもやはり中国人は雑だなぁ、これだから中国人は、と感じた。この感覚は普通の日本人と同じだろう。

 もう1つは小5の時に体験した抗議デモだ。通っていた北京日本人学校では、デモによって運動会が中止になった。上海に引っ越しが決まっていた私は北京最後の思い出をデモによって奪われた。その日は労働者総出でデモに参加したため、工場はストップした。それだけでいつもPM2.5が蔓延する空が嘘のような青空が広がっていた。私は当時の家である亮馬橋外交公寓からデモの様子を見ていた。青空の下では小5の私にとっては衝撃的な光景が広がっていた。日本の国旗を燃やす者、声を荒げて日本車を倒す者。新しくなったばかりの日本大使館には生卵が投げ入れられる騒動も起きた。7年前のことだが、今も鮮明な記憶として残っている。中国語を勉強し、中国に対して愛が芽生えていたが、一瞬にして裏切られた気持ちだった。

 しかし帰国後、学校の授業で中国について出てくると、誇らしい気持ちになる自分がいると気付いた。次第に自分の中で中国の存在が大きくなっていた。そして小学生の時には考えたこともなかった中国の政治に興味が出てきた。帰国後も中国語を続けていたのは、就職に有利だと親に言われたからだったが、自分の中国語で将来が開けると思うとワクワクした。

そして高3になる前の春休みに私は再び北京に訪れた。今の私の視点で中国を見たいと思ったからだ。帰国する時は二度と来るものか、と思っていた中国に、自分から志願するとは小学生の自分は想像もしていなかっただろう。

5年ぶりの中国で私は小2以上の衝撃を受けた。高層ビルはさらに増え、ものの数年で全てキャッシュレスに移行していた。この時、人民中国雑誌社の記者とも交流する機会に恵まれた。また、父のつてで、対外経済貿易大学の大学生とも話す機会があった。皆がエネルギッシュで熱意があり、国や経済について真剣に考えていた。私は感化されまくりだった。同時に私は将来こういう人間を目指したいと強く思った。小2の時は日本と中国の些細な違いばかり目についたが、高2の訪中では中国の大陸的なダイナミックさに心を奪われた。

 そこで私はわかった、私にとって中国は兄弟のような存在だと。いつも一緒にいるため、小さいことが嫌になる。デモという大喧嘩をして、そのまま喧嘩別れになった。しかしなぜか気になり、結局1番の刺激を受ける存在。まるで兄弟だ。私には3つ下の妹がいる。妹はそういう存在であると同時に、中国も同じだと思った。兄弟だから喧嘩をしても、心の底から嫌いになれないのだ。

 大学生になったら私は中国に留学したい。そのために大学に合格したら、すぐに中国語の勉強を再開しようと計画している。私は中国語を9年間習ってきたが大学生と話した時、かろうじて聞き取れるだけで話せなかった。それがとても悔しかった。次に中国に行くときは会話を楽しめるくらい話せるようになりたい。なぜなら私と中国は兄弟だから。

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