最近日本にて、日本語で接客をする外国人店員に対する日本人客の対応の悪さが問題視されている。私はニュースやネットの記事を見るたびにどうしても友人達の顔を思い出してしまう。大学では朝から勉強をして、終業後は急いで「私バイトだから先行くね。」そう言って急ぎ足で教室を後にする彼女達に対して申し訳ない気持ちになった。
そう思ったのには大きな理由がある。ある日、中国語を勉強している私は覚えたての単語を中国人留学生の友人に聞いてもらった。しかし、発音が難しく完璧に言えないのでいつも恥ずかしがってしまう。すると、友人が「友加里!友加里は外国人だから間違っていいの!何もおかしくないよ。恥ずかしがらないで!」と指摘してくれた。この時私はハッとして緊張が解けた。今まで私の中にあった恥ずかしいと思う気持ちがすんなりと流れた。そして、そうだった彼女からみたら私は外国人だったと気付かされた。毎日、日本語で会話をしていると、時々彼女が中国人ということを忘れてしまう。彼女の言った外国人という言葉が、私たちは違うということを思い出させてくれた。外国人という言葉を使うと差別という意味を感じる人もいるかもしれない。国の外と内の様に分けている。しかし、中国人の友人と日本人の私が違うことは真実だ。生まれた国、習慣や文化、思想宗教など私たちの経験してきたことは変えることができない。しかし、お互いの違う点を認め合い、尊敬し合うことが理解を深めることにつながる。友人の言った外国人という言葉は、あなたは今まで日本語を話してきたから中国語ができないのは当然。どんどん間違って練習して、と言っているように感じた。こんなにも寛容な心で私を受け止めてくれた彼女らに対して、悲しいニュースがあることは事実だ。また、別の友人は「もし私が中国人じゃなかったら、中国語は絶対勉強しない。難しいから。友加里はすごいよ。」と激励してくれる。私は中国人留学生の友人たちの言葉に毎回救われている。もし、自分の前で日本語を間違ってしまった外国人がいたら友人たちの言葉を借りて勇気づけたい。自分が勇気付けられたように。
今日、日本には様々な国の人が訪れ暮らしている。一緒に暮らしていく上で、違いや違和感を感じる場面はある。しかしそこで違いを拒絶するのではなく、なぜ違うのか疑問に思うことで文化の理解につながる。なぜ、あなたはあの時こうやったの?なぜそのように思ったの?ただ疑問として残すのではなく、聞くことが相互理解につながる。自分の当たり前が、他の人にとっては当たり前じゃなくなる。このことを考えながら生活をすれば多くの人がより分かり合えて、より良い関係が築けるだろう。