そろりそろりと参ろう
  幼少の頃、我が家の近くにあった中華街の情緒が私のお気に入りだった。中華料理店の軒下に並ぶ真っ赤なランタン、店先に立つずんぐりむっくりとした可愛らしい人形、どこからともなく漂う線香の匂い。その原体験から、私は長らく中国に対して好意的なイメージを持っていた。しかし、それは今から考えると「食わず好き」だ。中国出身の方と知り合うこともなく、中国の文化を良く知っているわけではなかった。私がそろりそろりと中国に近づき始めたのは、高校で受けたある古典の授業がきっかけである。

 「この声は、どなたの声ですか?」

 高校生の時、漢文の授業のなかで、ある朗読のレコードを聞かせてもらった。その声は、無駄なものが削ぎ落されていてとても鋭く、それでいて中国の山林風景が眼前に現れるような表現の豊かさを備えた見事なものであった。感銘を受けた私は授業が終わると先生に駆け寄った。先生に声の主を尋ねるとそれは狂言師の野村万作さんだと教えてくれた。あんな素敵な声が私も欲しい。大学に入ったら狂言の修行をしよう、とすぐに心に決めた。以来、狂言は私のライフワークとなり、今でも舞台に立たせてもらっている。

 狂言の修行を始めて数年、中国とのご縁が始まる。李さんという女性から連絡があった。話を聞いてみると、中国出身の李さんは、東北大学に留学して、日本の古典芸能を勉強していると言う。曰く、狂言に魅せられ、狂言を紹介する本を中国で出版したいので、いくつかの質問に答えて欲しいとのことだった。すでに高名な師匠方にインタビューもされたそうで、大学生の私がお役に立てることなどあるだろうか、と思いながらもお返事をした。どうやら、名人上手の先生方だけではなく、若者の声も聞きたいということだった。そこから、李さんと新米狂言役者との文通が始まった。「能と狂言は、どう違いますか」「流派によって、狂言のセリフや演技は変わりますか」李さんから質問を受けるたびに、私は一生懸命に資料を調べ、ときに私の師匠にお尋ねしたりしてお答えした。中には「能狂言を見ているときに眠たくなったときはどうすれば良いですか」という正直すぎる質問もあった。気がつくと、次の質問を心待ちにしている私がいた。李さんの質問に答えるうちに、私も中国の古典芸能について興味が湧いてきた。「京劇と昆劇はどう違いますか」「現代の中国の人たちは京劇を見に行きますか」と質問を投げかけてみる。もう、中国人と日本人、教える側と教わる側という垣根は消え去り、ただ日中の古典芸能を愛する者同士が学び合っていた。

 楽しい時間が過ぎるのは早かった。半年もしないうちに、李さんは帰国されることになってしまった。とうとう実際にお目にかかることのないままだったが、私は李さんの夢の実現を祈ってお別れの文章を書いた。それから5年が経ち、中国から嬉しい知らせが届いた。李さんがついに狂言についての本を出版されたのである。狂言の発生から現代の狂言まで、沢山の上演写真や資料を交えながら記した、充実した内容である。それから数年経った昨年、さらに喜ばしい知らせが届いた。中日平和友好条約締結40周年を記念し、中国北京で狂言が上演され、大盛況であったとのことである。その狂言会に出演されたのは、誰あろう野村万作先生たちであった。私を魅了したあの声が、中国の皆さんにも届いた。その観客の中には、李さんや李さんの本で狂言に興味を持って下さった方もいらっしゃるかもしれない。そう思うと、もはや運命というべきご縁に感謝の気持ちがいっぱいである。

 さあ、次は私の番だ。私の夢は、中国の伝統芸能を日本で紹介することだ。食わず好きにならぬよう、実際に中国に赴いて芝居を見て、役者の方々に沢山の質問をしたい。手始めに、久しぶりに李さんに手紙を書いてみようと思う。まず、そろりそろりと参ろう。

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