「一炊の夢」

鈴木猛敏

私の実家は葛飾柴又、下町の商店街にあり、この地で90年以上続く床屋を代々経営している。したがって私は、生まれも育ちも葛飾柴又であるが、帝釈天で産湯に浸かったという話は聞いていない。大学時代に第二外国語として中国語を履修した。中国語や中国文化に興味を抱き、実際に北京・上海・杭州にて行われた日中学生交流会に参加したことがあった。それが私にとっては初めての訪中であったが、日本で勉強していた中国語が拙いながらも通じた喜びが、帰国後も中国語への親しみのモチベーションとなっていた。

自宅の前に「東方紅」という中国料理屋が開店したのはある年の春であった。それから半年以上が経ったが、これまで機会がなく訪れたことがなかった。開店当初は、今はシャッター商店街となったこの通りにおいて、店の外には長い行列ができていた。

おそらく本来は自動ドアであったのだろうが、扉のボタンの上からビニールテープで張られた紙には、手書きで「手動」と書かれている。営業中の札がかかっていることを確認し、そのガラスの扉を開け、一歩店の中に入る。薄暗く、少しひんやりとした、むしろ寒いと感じる空間である。お昼時であるのに私以外、他に客はいない。誰もいない店内には、つけっぱなしのテレビからお昼のニュースで年末のアメ横の賑わいを伝えるアナウンサーの声が響くのみである。私はこの店のどこかにいるのであろう誰かに向かって恐る恐る「こんにちは」と声をかけた。すると、どうやら玄関の正面の扉の奥に厨房があるらしく、「いらっしゃいませ」と低い音程でやや片言の日本語が返ってきた。この中国料理屋東方紅の主人のリンさんである。

 入口に一番近い窓際の席に座ると、リンさんがコップに水を入れて持ってきてくれた。彼は不愛想な表情で口数も少なかった。東方紅のおすすめは五目炒飯とのことで、早速それを注文した。以前杭州で食べたことのあるような味で、私の好みであった。食事を終えて会計を済まそうと、厨房の入り口の近くにいたリンさんに近寄った。私は思い切って「好吃、多少」と尋ねると、彼は少し驚きつつ笑顔で「中国語話せる?五百五十」と言った。お金を渡しながら私は「前に少し勉強しました。ごちそうさまでした。また来ます、」というと、彼は「谢谢。」と言って店の入り口まで来て見送ってくれた。身近な環境にリンさんという中国語の先生を見つけた私は嬉しくて仕方なかったため、その後週一回ほどのペースで東方紅に通うのだが、彼の名前がリンさんであることを知ったのは初めて会話したこの日から2日ほど経った後に再度お店に行った時のことだった。すっかり顔なじみとなった。

リンさんは厦門の出身で、中国の料理店で調理の仕事をしながら日本語の勉強をし、数年前に来日したとのこと。日本の歴史に興味があり、旅行で訪れた愛知県の清洲公園で撮ったという織田信長の銅像や京都の金閣寺など写真を見せてくれた。私にとって、東方紅は単なる食事処ではなく、国際交流そして語学の実践の場所となっていった。美味しい食事をしながら、中国語を使えるし、何より話が尽きないほど楽しいのだ。こんな幸せが身近にあることをありがたく思った。

年度末の頃、私は忙しくなりしばらく東方紅に通うことができなくなっていた。少し落ち着いたらまた行こうと考えていたある日、父から「家の前の中華屋、トラックでテーブルとか椅子とか運び出していたぞ。店閉めたのかな。」と言われた。まさかと信じられず、その後数日気にかけていたのだが、やはり人が出入りしている気配は全くなかった。なんとあっけない。別れの挨拶もできなかった。残念ではあるが、わずかな時間のこの楽しかった日々を忘れることはないだろう。また新たな「中国との出会い」を期待しながら、私は地道に努力を続けていきたい。東方紅での夢のような時間は、私にまた新たな夢を持たせてくれた。

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