「未知とものさし」

 後藤翔

「無理!絶対美味しくないじゃん!」

  目の前の食べ物を前にして私は必死に頭を振った。二年前に訪れた中国の王府井の裏小路の露店街で「それら」を前にしてげんなりした。褐色の体躯に固く光沢のある殻、串団子のように連ねられて店頭に並べられたサソリと、強烈なすえた臭いを放ち、食欲よりも逃走本能を刺激される臭豆腐。日本にはない「異物」だ。普段食べるものとは形も違う。きっと舌に合わない。

 「食べてみろって!すごく美味しいから。せっかく中国に来たんだし挑戦しなきゃ」

 私の躊躇いをよそに友人は横で意地の悪そうに笑いながら私の背中を押す「どうせ無理、多分一口目でギブアップだ。食べられる訳がない」そう思いながら、私は恐る恐るサソリ串を口に運んだ――

 元々中国研修に乗り気ではなかった。毎日のようにメディアでは外交や反日の問題が取り上げられ、良いイメージを持っていなかったからだ。「どうせ日本人に冷たいし、居心地もきっと悪い」と、直前まで悩んだ。しかし悩み抜いた先にあったのは私の価値観を180度変える貴重な体験だった。

 「日中関係は良くなっているが、まだまだ改善の余地が有るよ。だからこそこういう場での活発な意見交換が必要だ。君の意見を聞かせてほしい」

 研修の一環で訪れた中国の大学で、私とそう年も変わらない中国人の学生が拙い日本語で私にそう伝えてくれた。屈託のない笑顔と、聡明そうな目元が印象的な人だった。

 中国は日本より学歴社会の色が強い事に加え、大学のレベルが高いため進学することが非常に難しい。彼も血の滲むような勉強をしてこの大学に入学したと言う。私は彼に「本当に立派だ」と素直な感想を述べた。照れくさそうに笑いながら彼は「普通だよ」とトーンを変えずに言う。「まだまだだ。もっと勉強してやりたいことを将来したいんだ。」静かに、しかし確かに燃えるような熱意を感じさせる彼の言葉。私は身震いした。利発で謙虚、加えて野心家。これほどの大学生が今の日本にどれほど居るのだろう、と思案した。

 一日の終りに彼は「日中の将来を背負うのは僕たちだ。僕らのような若者が歩み寄ることが良好な日中関係の第一歩だ」と私に言った。真っ直ぐなその眼差しは、私が勝手に独りよがりなイメージで抱いていた中国人像とは真逆だった。

 結局私は「知らなかった」のだと思った。彼のような中国人の存在を。周囲の作り上げた幻影に縋って、決めつけて、遠ざけていた。「どうせ」「きっと」と関わったこともないのにレッテルを貼った。使う言語が違うだけで、文化が異なるだけで。それだけのことで関わろうとしなかった。

 中国研修で泊まったホテルのスタッフも、寝台列車の乗客も、王府井の露店商も、誰も私達日本人を邪険に扱わなかった。寧ろ「日本から来たの。遠いところから大変だったでしょう」と歓迎してくれた。そこに私の想像上の「中国人」などいなかった。知りもせず、経験もせず、偏見だけで敬遠していただけだった。

 ――口の中でサソリの殻が弾ける。腹わたの苦味と、シンプルに味付けされた塩味の塩梅が丁度良く、絶妙な味だ。そして私は臭豆腐を口に入れる。強い匂いとは裏腹に味噌ベースで味付けされた厚揚げのような豆腐が口の中でじゅわじゅわと崩れる。一口食べると臭いは気にならなくなり、むしろいいアクセントになった。

 「なにこれ。すごく美味しい!」

驚きと喜びが混じった心の声が口から漏れた。気づけばあっという間に平らげてしまっていた。

 異形、異臭、未知、未体験。「知らない」から食べたくないし、触れたくない。知ってしまえば、体験してしまえば見えるものが広がる。世界はがらりと変わる。少しの勇気ときっかけで、今までの価値観はひっくり返る。

 私は筆を置いて、私のものさしを変えたあの一週間を思い出す。聡明な彼は今何をしているだろう。王府井に行くのも良い。雑然としたあの裏小路にサソリと臭豆腐はまだ売ってあるだろうか。

 

 

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