日本人という仮面

今村奈津子

 私は岐阜県で生まれ群馬県で育った、生粋の日本人だ。いわゆる外国人との出会いは学校の英語の先生のみ。そんな環境で15歳まで育った私が通うことになった高校には、中国人が何人かいた。そんな些細な変化だが、どこからどう見ても日本人な人間しか周りにいなかった私にとっては、カルチャーショックになった。王さん、趙さん…そう先生から呼ばれるクラスメイトは、正直に言うとまるで宇宙人のように感じた。私とはまるで違う人たちなのだろうなあと考え、日本人の名前をしている友人を作った。

 しばらくのち、友人を介して一人の女の子と知り合った。その女の子は親が中国人で、中国の名前を持っていた。どんな話をすれば良いのだろう。そう思った私の不安はすぐに打ち砕かれた。授業の話、先生の話、好きな漫画の話ですぐに打ち解けることができたからだ。彼女は中国で育ち、中国の名前を持っただけの、私と同じ一人の女の子だった。私は勝手に日本人の仮面をつけ、相手に中国人の仮面を押し付けて違う生き物として生活していたことを知った。その女の子とは、毎日のように一緒に帰る大親友になった。

 今思えば、私は中国が苦手だったのだと思う。中国に対するネガティブな報道を耳にして、中国人は日本人が嫌いで、日本人も嫌いというイメージが何となく頭の中に存在したし、街中で飛び交う中国語は威圧感があって怖かった。しかしそれは中国が、ではなく「よく知らない存在である」中国が、苦手だったのだろう。中国語を学ぶうちに、ふわふわと話しても意味が伝わる日本語と違って、はっきりと発音しなければ伝わらない言語だったのだとわかり、自分が威圧感だと思っていたものの正体を知った。さらに中国のことを知るうちに、政治的・歴史的な考え方も知った。そして徐々に私の中にあった苦手意識は解消されていった。

 目の前の人間が一人の人間に過ぎないことを知ることは、外国人と交流する上で重要なことなのではないかと思う。私たちは、日本人と話すときは「私とあなた」という関係で話ができるのに、外国の人と話すときは知らず知らずのうちに「日本人の私と○○人のあなた」として接してはいないだろうか。確かにどんな国で育ったかは個人の人格形成に多大な影響を与えるが、一様に同じ性格なわけではない。○○人だから私とは違う生き物なのだろうと決めてかかることはもったいないことだと思う。

国、つまり政府間の話に絞れば、本当の意味で国同士が友人関係になることは非常に難しいことだと思う。私たちを代表して国という仮面をつけ会議の場に立つ人たちは、まず国益を考え行動する。目の前の相手は国益を損なわせている相手か、そうでないかで国にとっての友人かそうではないかが決まってしまう。特に日中間の政治的なすれ違いは領土問題や歴史的背景からも見えるように、短期間で解決できるものではないように見える。しかしその仮面は私たち個人のやり取りにおいて、本当に必要なものなのだろうか。わたしは日本人だから、歴史的に軋轢のある国の人とは何となく話しづらい。なんとなく嫌いな気がする。そんな風に考えるのは簡単ではあるが、もったいないと思う。今やどんな国同士でも、どこかで結びつきがある社会になった。そんな今だからこそ国という仮面を脱いで一人の人と人との付き合いをしてみたいと思う。

人民中国インターネット版

人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850