80年前のありがとう

徳永愛子

私と中国はきっと私が生まれる前から繋がっていた。私の祖父、山田嘉吉は私が生まれる前に亡くなっていた。当然私は彼の存在も彼が生前何を語ったかも知らない。私が中学に上がった時、母が私にこんな事を伝えてきた。「おじいちゃんは昔、戦争の時足を負傷して歩く事ができなかった時に敵の中国兵に助けられた事があったんだよ」当時の私はそれが何を意味するのかわからなかった。

幼い頃から私は耳が良く、他の言語を音と捉えていた。そんな私にとって中国語はとても綺麗な音に聞こえた。日本語や英語にはない発音が素晴らしく感動した。家にあったチャイナドレスを着てテレビでよく放送されている中国語講座を真似て発音してみたこともあった。高校に上がり、遠く離れたニュージーランドに留学した。そこで私は中国人の彼と出会った。彼は私にいろいろなことを教えてくれた。彼と出会い、中国の文化や食べ物、日本と違う部分を沢山見つけた。私の母は私が中国の人と付き合う事をよく思っていなかった。日本人の中国に対するイメージが悪かった事が理由だった。

2019年の冬、彼の両親に会いに中国へ行った。上海へ行き成都へ行き発音の違いや食べ物、空気の匂いが違った。人の話し方や歩き方、コンビニの店員さんや道路に生えている雑草まで全てが違った。中国に滞在して2週間が経った頃、彼の祖母に会うため地下鉄に乗って南京へ向かっていた。しかし、母から「南京は危ないところだから、南京の人は日本人を恨んでいるから気をつけなさい。本当は行って欲しくない」と言われた事を思い出し、地下鉄のホームで子供のように泣き出してしまった。今から約80年前に起きた南京大虐殺のことだった。私は私が日本人である事を知られるのがとても怖かった。日本人である事が嫌になった。涙を拭いて勇気を振り絞り彼の祖母に会いに行くと彼女は私を強く抱きしめた。そして、「Welcome to China!  I am your grandma.」と言った。嬉しくてまた涙がこぼれ落ちた。中国語がわからない私のために英語を覚えて話しかけてくれた。

彼女は私に中国の名前をくれた「」という名前だった。まるで中国に家族ができたようで嬉しかった。今まで独学で中国語を学んできた私は思うように話せなかった、だからこそ彼女ときちんと中国語で話しがしたいと強く思った。次は必ず彼女と話せるように、大学へ進学したいまもずっと中国語を勉強している。2020年になり、新型コロナウィルスが蔓延し中国へ行くことが出来なくなってしまったが、冬には日本のしめ縄と門松を中国に送った。中国の家族に日本の正月行事を伝えることができた。海を渡った隣の国だが、近いようで遠く感じる。言葉も文化も違う中国には日本を好きな人が多くいることも知った。私が南京で流した涙には様々な感情が込められていたと思う。今生きている時代の子供達は戦争を知らない。そして語り継がれることも少なくなるだろう。そんな時代に私は祖父を助けた中国兵の話をいつまでも後世に話し続けたい。私の知らない時代を生き抜いた祖父や祖父を助けた中国兵はこんな未来を想像しただろうか? もしも、あの時中国兵が私の祖父を助けていなかったら、私はここに存在しないのだろう。そしてきっと語り継がれることも無かったのだろう。中国と日本の橋を繋ぐそんなことが未来の私にできたなら、80年前の恩を返せるのだろうか。祖父から受け取ったメッセージを今なら理解する事ができる。いつの日か祖父に命を繋いでくれた事を形にして返したい。

初めは彼のことをよく思っていなかった母も言葉の壁を乗り越え「庆玮は私の息子だ」と言って喜んでいる。少しずつではあるが、まずは私の周りにいる多くの人達の考えを変える事が今の私にできる事なのかもしれない。

ありがとう。次は私が誰かを助ける番だ。

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