対岸の父

今西祥太郎

大きな川の写真だった。

向こう岸にはがらんとした土地が広がり、ぽつぽつと建物が伸びている。父が突然、書棚の奥底から埃と共に一枚の写真を引っ張り出してきて、得意げに僕に見せたのだ。

「外灘」

そう言う父は、まるで少年が自慢のレアカードを友人に見せる時のように僕の反応を伺っていた。写真の外灘は僕の知る姿ではなかった。かなり前に撮られたのだろう。「何もないね」と僕は言った。父は満足げだった。それが少しだけ癪に触ったが、でもその「外灘」は本当に何もなかった。

外灘といえば僕の上海留学中の庭だった。入学手続きが終わって最初に繰り出したのは東方明珠だ。友人と共に恐る恐る(エレベーターで)てっぺんに登った。床ごと回るレストランでバイキングを堪能したが、その味よりガラス張りの外の摩天楼が鮮烈に印象に残っている。「これが魔都か」と通ぶって、これから始まる留学生活に思いを馳せたのが懐かしい。

授業のない休日も、暇を見つけては外灘へ足を伸ばした。今もスマホには、そこで撮った写真たちがストレージを圧迫している。何気なく見返すと、騒がしくも暖かいネオンの光に誘われそうになる。こういう時、コロナが本当に憎いと思う。

留学生活の始まりが外灘なら、終わりも外灘だった。僕は留学の帰路にあえて航路を選んだ。蘇州号と呼ばれたそれは、外灘から海に出て二日を費やし大阪を目指す。夢のようだった。外灘と日本は繋がっていたのだ。

帰国してからの僕は正直浮かれていた。誰よりも中国を知っているような、そんな気分に浸っていた。だから、父が「外灘」の写真を見せた時、正直悔しくもあった。父は、僕の知らない中国をたくさん知っていた。

80年代後半、大学卒業後に中国語を習い始めた父は、旅行に困らないくらいの言葉を習得すると、中国を周遊するようになった。父を教えた中国語教師は、日本で指導していた上海人だった。二人は授業以外でも交流があり、父は自分の結婚式にも先生を呼んだ。

上海に留学中、僕はその先生のもとを訪れる機会があった。先生は、今では上海の大学で教鞭を執る教授だった。渡航の直前、父はその教授の連絡先を僕に教え、「会ってこい」と言った。留学生活が始まって一ヶ月ほど経った頃、教授と連絡を取ることに成功した。僕は彼の大学関係者が集う食事会に招待された。

教授は非常に温和な方だった。あろうことか大学の構内に迷って少し遅れてしまい、汗を滲ませながら謝る僕を、教授は笑顔で隣に座らせた。しばらくすると自己紹介の時間になった。円卓を回すように代わる代わる教師や学生が前に出て自己紹介をし、時折僕の隣に座る教授に向かって、笑いかけたり、しみじみしたりしていた。最後に教授は僕にも自己紹介するよう促した。乾いたはずの汗が再び僕のTシャツの背中を伝った。僕は持ちうる中国語を使って、日本人であること、留学していること、ここにいるきっかけには父の存在があることなどを話した。僕のスマホには、当時教授と撮った写真も残っている。父にも見せたはずだ。その写真を見て、彼は何を感じただろう。

父が僕に見せた「外灘」の写真は、今とは似ても似つかなかった。中国の変化は目まぐるしい。僕と父は時を超えて同じ「外灘」の地を踏んだはずだが、お互い「外灘」と聞いて思い浮かべるものはきっと別の姿で、それらはまさに黄浦江を挟んで向かい合う陸地のように隔たっているのだ。

僕もいつか子供が生まれたら、その子に中国語を教えるかもしれない。彼は夢中になって中国語を学び、中国を知ろうとするだろう。なにせ父と僕の二代を魅了したのだ。その魅力は今後も衰えることはない。未来の中国はきっとまた今とは違う顔を見せているだろう。その時、僕はスマホのストレージで窮屈そうにしている外灘の写真を引っ張り出してこよう。そして、自分の子にそっと見せてあげるのだ。多分、得意げに。

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