私の中の目に見えない中国

太田実来

私が母方の実家に泊まりに行くと、みんなで手作りの水餃子を作って食べるのが恒例だった。

祖父はよく、「中国ではこうやってお茶を淹れるんだ。」と言って、時間をかけてお茶を淹れてくれた。祖母は家事をしながら、いつも中国語の練習をしていた。子供だった私は水餃子の美味しさに夢中で、二人が中国で終戦を迎え結婚したことくらいしかその時はわからなかった。 

そんな祖父が四年前に亡くなった。体調を崩し引きこもりがちだった私だったが「今しか会えない」という思いで、祖父の病院まで飛んでいった。祖父は、「実来は実来がやりたいようにやればいい。」と言って力強く手を握ってくれた。あの時の祖父の想いが、今私の手を動かしている。それが、祖父の最後の言葉になった。

祖父が亡くなった後、祖母は九十歳で『海を渡っていった少女』と題して戦争体験記を本として残した。私はその本の作成を手伝った。そして、子供の頃に祖母が中国語を練習していたのは、中国に会いたい人がいて中国に行く為だった事を知った。それと同時に祖母の壮絶な体験と日中友好に対する強い想いを知ることにもなった。祖母の体験が鮮明に脳裏に浮かんで胸が痛み文章を打つたびに何度も手が止まった。十六歳で勤労奉仕隊の一員として当時「満州」と呼ばれた中国の東北地方に渡った祖母は六か月後に終戦を迎え、逃げながらなんとか命を繋いだ。炭鉱で中国人の子守として働きながらかけがえのない出逢いを経験し、助けられ守られながら日々を生き延びた。私は、直接祖母の口から語られることのなかった人生を全て見たような気がした。「助け合わなくてはいけない、戦争は絶対にダメだ。」と会いに行くたびに何度も言っていた祖母の言葉の重みをようやく感じることができた。

祖父は十九歳の時に兵隊で「満州」に渡り、終戦後は中国人と共に仕事をしながら生き延びた。その後、祖父と祖母は出会って結婚し日本へ帰国することができた。その十数年間に二人が体験したことは言葉にできないほどの悲劇だったかもしれない。けれども二人はいつも「日中友好」という言葉を口にしていた。

2007年、祖父と母が中国に招待されて行ったことは記憶していた。その時に青春時代を共にした仲間のお墓に中国人と共に松の木を植樹してきたことを最近になって知った。今、祖父の口から語られることはないが、祖父が母に伝えた当時の事を私は母の口から聞くことになった。祖父は中国空軍老航校創設に参加し、戦闘機の計測器を作る技術を中国人に教えた。言葉の通じない日本人と中国人が、共に助け合い苦難を乗り越え、兄弟のような消える事のない深い友情で結ばれていった。その時に祖父が残した感想文には「私の青春時代が中国空軍創設のために役立ったことを一生の誇りとして、この感激を孫の代まで伝えて行こうと強く、強く思いました。」と記されていた。言葉で伝えることができなかった祖父の想いを私は初めて知った。戦争という悲惨な時代に、かつては憎しみ合った日本人と中国人が共に助け合い友情を築き上げた祖父の人生は、胸をはった後悔のないものだった事だろう。

今、新型コロナの流行で祖父のお墓に行くことはできないが、行ける時がきたらそのお墓に刻まれている「友好」の二文字に手を合わせて私はこう伝えたい。

「じいちゃん、私は『実来のやりたいようにやればいい』という答えをまだ見つけられないけど、じいちゃんが植えた松の木に託した友好の想いのように、目に見えないものを大切に生きていきたいと思うよ。この気持ちが今の私の目の前を少し明るくしてくれているよ。」

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