千年の歴史と百年の波乱

 「青島」という言葉が初めて使われたのは、明の嘉靖年間(152266年)のある地理書で、元々は町の前の海湾にある緑の茂った小さな島の名前だった。膠澳(現在の青島地域)の護衛のために行政区が設置されたのは1891年のこと。まだまだ「若い」町ではあるが、近代史の嵐が吹き荒れた地でもあった。

 アヘン戦争後、中国は帝国主義の列強の侵略を立て続けに受けた。97年にはドイツ海軍部隊が青島最初の軍事専用人工埠頭「桟橋」に乗り込み、町の高台である「信号山」を占領した。膠州湾は瞬く間に陥落し、青島はドイツの植民地となった。1905年、ドイツ軍は信号山の麓に欧州王室様式の古城風の建築を造り、青島占領後のドイツ総督の官邸とした。ドイツ統治時代には、総督官邸や「アンナの別荘」など、異国情緒あふれる建物が次々と造られ、青島は最初の大規模な都市建設期を迎えた。


 14年に勃発した第1次世界大戦では、英日連合軍がドイツ軍と戦い、ドイツに代わって日本が青島を占領した。19年、中国では若い学生たちによる愛国運動「五四運動」が始まり、そのスローガンの一つに「青島を返還せよ」が掲げられた。22年、中国は青島の主権を取り戻した。

 30年代、青島では2回目の大規模な都市建設が行われ、多くの著名作家や科学者が青島に移り住み、活動するようになった。