嶗山と徐福出航の地

 中国地図の形は、大きなニワトリに似ている。そのニワトリの首もと、渤海と黄海の中間地帯に山東半島が伸びている。そして、その南東側、黄海に面しているところに位置するのが青島だ。青島は上空から見ると人間の耳のような形をしており、耳の穴の入り口に当たる膠州湾を中心に都市部が内陸に向かって広がっている。膠州湾の東海岸には市北区と市南区の二つの中心区域、西海岸には西海岸新区があり、嶗山区は中心区域の東に位置している。

 嶗山区は、中国の海岸線最高峰の嶗山があることにちなんで名付けられた。地元には「泰山は高くとも、嶗山には敵わない」という昔から伝わる言葉がある。伝説によると、古代の皇帝は不老不死を求めて、しばしばこの山に人を登らせて不老不死の薬を探したという。その時の山道が険しく、登るのに非常に苦労したため、「嶗山」の名が付いた。

 「我昔東海上、嶗山餐紫霞。親見安期公、食棗大如瓜」。嶗山の太清宮から石階段を500段余り上ったところの石壁に、李白の遊嶗詩が刻まれている。「船で東海の夕焼けを楽しみながら、仙人のような修行を体験し、安期公の姿を見ることができただけでなく、ウリのように大きい嶗山のナツメの味も堪能できた」という、20文字の短い詩句だが、嶗山の道教聖地としての魅力が大いに伝わってくる。詩の中に出てくる「安期公」とは道教の仙人で、伝説によると、安期公は秦の始皇帝に「伝説の蓬莱山に行けば、不老不死の妙薬を手に入れることができる」と約束したそうだ。徐福出航の物語もこれが始まりだった。


 徐福出航の物語は、司馬遷の『史記』に記載されている。秦の始皇帝から海を渡って不老不死の薬を手に入れるよう命じられた徐福だが、3000人の少年少女を連れて出航し、数日後に日本に上陸したことは中日間の美談として語り継がれている。資料によると、徐福は古代の琅琊(現在の西海岸新区)と嶗山から2度出航している。嶗山の西の麓の盆地にある登瀛村はかつて徐福が木を切って船を作った場所だったという。

 唐・宋の時代になると、多くの道士が修行や悟りを開くためにここを訪れ、嶗山は道教の聖地となった。ここには国の文化遺産であり、嶗山の人々が何千年にもわたって創作し、伝承してきた口承文学「嶗山民間故事」が息づいている。清代の作家・蒲松齢が嶗山に住んでいたとき、これに触発されて『聊斎志異』の名編「嶗山道士」と「香玉」を創作した。