私と『菊次郎の夏』の物語

李蒙之 江西科技師範大学

 

高校三年生の私、今更思い出せば、まるで昨日起こったことのように、身近に感じる。実は卒業から今まで、二年半の月日も経ってしまった。一生懸命机の前に座って筆を振るったり、教室の外の廊下で本を大声で読んだりする姿はこの私の人生の中でもう二度と現れることはないかもしれない。なんの懐かしものだ。

話がちょっとズレたかもしれないが、私と『菊次郎の夏』の物語は高校卒業する前の短い間だった。緊張感と蒸し暑さに溢れんばかりの五月、心の唯一のゆとりは屋根裏で一人と本を過ごした時間だ。またその時、初めてその映画の存在を知った。ベッドに横になった私は一枚のイラストを見つめてじっとした。ひとりの坊やと一人のおじさんが緑に囲まれた草木の中に乗り出してカメラをにらんでいる映画のポスターにひかれた。いったいどんな映画なのか、この二人の間に何があったのか、こう思っているうちに寝込むようになって、夢の中に、ずっと積んでいるプレッシャーは妙に消えてしまった。一か月後の入学試験のこと、未来の行方など全部夏の野に紛れて半年ぶりのいい睡眠をした。

とはいえ、私はその映画を見なかった。それから、二年も経った2019年の夏休みに、家のテレビから日本語のせりふは耳に流れてきた。部屋から応接室へ、母が日本の映画を見ていた、その映画はまさに『菊次郎の夏』だった。私をきづいた母は「日本語の映画なので、おもしろそう、一緒に見ようか」といい、それで二人で映画を見始めた。

スタートしてまもなく二人も主人公の世界に落ちた。今とは比べ物にならない年代の差を感じる画質だが、映画全体はいくつかの部分に分けられ、漫画のように一章ごとに小見出しをつけ、さらに、俳優たちの演じ方、シーンの撮り方や観客の私たちに伝えたいことはすべてきちんと見せられた。今まで見たことがなかった撮影のスタイルに惚れてしまった。そして変な人ばかりいそうな映画は伝達したこと実は全く変わってないことも分かった。悪そうに見える人間はいい人に引き替え、礼儀正しくて優しそうな人は逆に悪者である。そんなことはこの世には少なくない。乱暴で傍若無人ぶりをしているおじさんは最初とても嫌いだが、ストーリーの展開に連れて、このおじさんのことをつい好きになった。大人なのに、正男の前に全く大人らしくない。いいこと一つもおしえてくれなかった彼は恥ずかしがるどころか、正男にお金を強請ったり、人のタイヤを壊させたりするなどのことばかりしていて、なのに、またこの男こそ正男と一緒に夏休みを過ごした人のも事実だ。不愉快なことはさておき、いい思い出はいっぱい作り上げてくれた。血でつながる絆より、旅の中とのであいはもっと貴いかもしれない。善と悪、家族と赤の他人、その境ははっきり見分けることはできなかった。絶対のものは存在しない。その複雑の感情は途絶えなく胸から込み上げてくる。

映画のタイトルは『正男の夏』ではなく、『菊次郎の夏』で名付ける理由は分かった。この映画の主人公はあくまで菊次郎であり、菊次郎の一夏の成長と冒険の物語である。

正男のキャラは子供時代の菊次郎であり、お二人は互いに助け合っている。菊次郎は正男と自分が同じ遭遇があることを知り、過去母から手に入れなかったものを正男を通してできるようになった。冒頭の横暴で非礼な振る舞いは子供時代させられた傷のせいだ。この映画を見て、菊次郎は一歩一歩前に進んで、成長して、大人になっていくことははっきり見られる。正男を慰めようとはじめて他人を思いやるために優しいウソをついた。旅の終盤母親を見に行く、老人ホームの人に初めて敬語で言葉を交わすことも、しみじみその変化を感じる。

日本人の心の繊細、再び感じさせられた。

菊次郎の夏は、もう終わった。この世の人々は。みんなも寂しいものだ。今年の夏ようやく見ることができ、二年も残された念願がかなってよかった。

2017のあの夏も、とても幸せだった。悔しいこと、悲しいこと、もう一切なくなり、かつての自分は輝いて全力に走ってきたから。完璧なものは存在しない、少し欠陥があることこそ最も美しいではないか。これは菊次郎、そして、その夏から受け取った一番の宝物だ。
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