鑑湖 越台 名士の郷

 浙江省杭州市から南東へ60㌔ほど行くと紹興に着く。上空から紹興を眺めると、北部は平原で川や道が縦横に交錯し、南部は山地で峰が連なり、渓流が何本も走っており、最も有名な山としては会稽山と天姥山がある。浙東運河がこの地の大小の河川をつなぎ、また、紹興と杭州、寧波をもつなげている。


浙東運河に架かる古い石橋(写真・陳暁)


 このように一見目立たない地方都市ではあるが、歴史上、数多くの名高い人物の足跡と物語が残されている。

 紹興一帯は古代、於越人が暮らす場所で、越国が建てられ、後に越州と呼ばれたこともあり、そのためここは越の地となり、「越」と略称されるようになった。堯・舜・禹は4000年余り前の中国の上古時代の3人の聖賢で、紹興の偉人物語は舜と禹から始まる。

 舜は歴史上、虞舜と称され、紹興の上虞がそのふるさとで、彼の孝徳の逸話は上虞の民間で代々伝えられ、舜王廟の廟会(縁日)は現在まで続いている。言い伝えによると、虞舜は帝位を大禹に譲り、大禹は治水を成功させた後、ここに諸侯を集めて会議を開き、功績に基づいて賞を与えた。会稽山の名前はこのことに由来している。大禹は諸侯に推戴され、中国最初の王朝である夏を開き、死後、会稽山に葬られた。現在でも禹廟や禹陵、禹祠がある。

 春秋末期、ここに強大な諸侯国である越国が現れた。紀元前490年、越王・勾践はここを都に定め、築城した。当時、紹興の北側にある蘇州は呉国の都城で、呉越の覇権争いは中国史上最も精彩な復讐劇を展開した。現在、紹興城内には越王台があり、中には越王殿がある。越王・勾践が臥薪嘗胆して、国を再興し恥をそそいだことを追想するため、後世の人々が建てたものだ。さらに、呉越が覇権を争った時代の有名な人物といえば、紹興・諸曁出身の西施で、中国古代四大美人のトップである。

 秦の始皇帝は中国統一の前年、呉越があった地域に会稽郡を置いた。隋・唐の後、会稽郡は越州と改められた。北宋が金に滅ぼされた後、宋の高宗は1127年に南宋を建国し、首都を南の杭州に移し、越州を昇格させて紹興府とした。また、紹興府のために「紹祚中興」という府額を書き、それは「国家の正統を継承し、中華を振興する」という意味だった。紹興は南宋の副都となり、南宋の皇帝6人が相次いでここに葬られた。それから、紹興の名は現在まで使われ続けている。


 紹興城の2500年余りの歴史において、前述の事柄以外にも、多くの輝かしい名前が紹興と密接に関係している。最も知られているのは、王羲之や李白、陸游、王陽明、魯迅、周恩来だろう。

 西晋末年、北方では戦乱が起き、大勢の士族が南方に逃れた。353年の旧暦3月3日、王羲之は友人たちと会稽山陰の蘭亭に集まった。彼らは酒を飲み、詩を詠み、詩集を作った。王羲之はほろ酔いになって即興で詩集に序を書き、蘭亭周辺の山水の美しさと曲水の宴の楽しさを記した。これが天下第一の行書といわれる『蘭亭集序』である。



題扇橋は書聖故里歴史街エリアにある。王羲之が扇売りの老婆のためにここで扇に題したことから名付けられた(写真・王剛)


 「東南の山水は越を首と為し、天下の風光は会稽を数える」。唐朝一代の『全唐詩』の2200人余りの作者の中だけでも、450人余りが越の地の山水を訪れ、1500首余りの代表的な詩作を残している。最も有名なのは李白の『夢に天姥に游び吟じて留別す』だ。天姥山は今の紹興市新昌県内にあり、当時の文化人が最も憧れた仙山の一つだった。昔の人の旅行は水路での移動が主で、水路が尽きると登山して歌った。李白や杜甫らは、山水詩の祖・謝霊運の足跡をたどって、移動しながら詩を詠み、「浙東唐詩の道」を歌い上げた。李白の「我 之に因って呉越を夢みんと欲し 一夜飛んで度る鏡湖の月」という詩の中で描写されている鏡湖は、現在の紹興市西部の鑑湖で、紹興酒はまさにこの鑑湖の水を使って作られている。

 沈園は紹興の数多い古典園林の中でも、唯一現在まで保存されている宋代の園林だ。言い伝えによると、南宋時代の愛国詩人・陸游は母方のいとこの唐琬と結婚し、愛し合っていたが、陸游の母親の偏見で無理やり引き離された。数年後、二人は沈園で偶然再会。胸にあふれる悲しみから、二人が共に作った『釵頭鳳』は長く語り継がれた。

 王陽明は明代の大哲学者で、陽明心学の「致良知」「知行合一」の中国における影響はとても大きい。彼は余姚で生まれ、当時そこは紹興に属していた。幼少時、父親の転居に伴い紹興城内に移り、後に貴州の龍場に至って道を悟り、晩年は再び紹興に戻って講学し、そこに葬られた。

 当初、辺ぴな場所だった紹興は、発展し、豊かで繁華な江南の名城になった。特に清代以降、同地の有名人はさらに数え切れないほど多くなった。毛沢東は魯迅生誕80周年を記念した詩の中で、「鑑湖 越台 名士の郷」とたたえ、これにより紹興の「名士の郷」という美称が広まった。



灰色の細長い石や石板で造られた古繊道(写真・陳暁)